そんな日の東京アーカイブ 自由が丘
その日、自由が丘には雨が降った。
友人に教えてもらった「古桑庵(こそうあん)」という甘味処へ行った。ひさしぶりに会うひとがいた。品物のお渡しもあった。
横浜でいうと元町のようなハイカラなセンスのよい店舗が並ぶ町並みの坂を上って行くと、そこだけ時間が止まってしまったような、昭和の香りのする佇まいの民家があらわれる。
古桑庵というのは、夏目漱石の娘婿の松岡氏の友人であったその家のおじいさんが、上京してくる松岡氏のために作った茶室なのだと説明してある。
庭を通って玄関の引き戸を開ける。引き戸は磨きこまれて木目が美しい。からからからと乾いた音がする。その響きと共に時を跨ぐ。実家に帰っていくような気分だ。
玄関で靴を脱ぎ、上る。左のほうに進む。開け放たれた座敷に座卓が並び、藍色の座布団が敷かれている。
庭に面したガラス戸のそばは廊下だったのだろうが、そこにも座卓が三つ並んでいて、その真ん中に陣取り、抹茶白玉をいただく。
ガラス戸からさっき通ってきた庭が見える。手前にカエデが見える。マキやアオキや松が見える。古い井戸や灯篭、大きな石も点在している。手水鉢もある。
自分が生まれ育った家の庭もこんなふうだった。井戸はなかったが、かわりに池があった。何年か前までは当たり前に自分が帰る家だったが、今はもうない。競売され、跡形もなく壊され、新しいしゃれた建売が並んでいる。
話し込むうちに、にわか雨が激しく降り始めた。瓦屋根を打つ雨音を聞いたのは久しぶりだ。
大粒の雨が庭の土をぬらし、やがて水溜りを作り、その水面で跳ね返る。雨水は樋を勢いよく流れていく。
かつては当たり前に自分のまわりにあったものが立てる音がひどく新鮮に耳に届く。マンションで暮らす自分には縁のない音になってしまった。
お渡ししたものを気にいってもらえて嬉しかった。自分の作ったものが誰かしらの手に馴染んで用を為すことができれば、それはさいわいというものだ。
注文をこなすことができてよかった。やっと肩の荷が下りた。過分な頂戴ものに恐縮している。
床の間の飾りや骨董のような調度を視野の端に収めながら、里帰りをしたような空気を吸いながら、風になるガラス戸の音を聞きながら、しらずしらず互いの秘めた物語を語ってしまう。
夫婦、親子、近所、仲間、出会うひと、離れるひと、離れられないひとのことが語られる。
ひととひとは、向き合えば、いずれ摩擦を起こす。感じ方の違いは、たがいの間の距離が近ければ近いほどより大きく感じる。その摩擦熱に焼かれそうな神経をほぐすのは、こういう時間なのかもしれない。
話しながらうなづきながら、それにしても、おんなの笑顔のしたにあるものはなんと奥深いのだろうと思う。
なんとたくさんのものを抱えながらおんなは晴れやかにしたたかに笑って見せるのだろう。自分も含めてそんなおんなをいとおしく思う。
ひとしきり言葉を尽くし席を立つころに雨がやんだ。敷石の色が濃くなり、松の葉に雨粒がとどまっていた。