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おお、こわいこと。
病院の洗面所でのことだ。三つ並んだ大きな鏡の前に立つと、横に小柄な初老の女性が並んだ。明る過ぎるしろっぽい光のなかで互いの風貌がさらけ出される。
あたしの前の鏡には片頬の中年の女の顔があった。同様に横目で見た鏡の中のその女性の生真面目そうな顔には、容赦のないシミが多数浮き出ていた。目尻に刻まれたシワもクッキリと見える。長く生きてきたあかしがそこにあった。
昔風のちりちりしたパーマに縁取られた顔は森の小動物のように落ち着かなそうで、なにかもの言いたげに見える。鏡なかのそのひとの奥まった小さな目はちらちらとこちらを見ていた。
こんな時、その視線はあたしの左頬にとどまっている。それは確かめなくてもわかってしまう。ここに来るまでの電車のなかでも、歩いてきた通りでも、待合室でもずっとそうだった。
いや、手術をして以後今日まで、ひとのあつまるところではいつでもどこでもそんなふうだった。それはきっとこれからもそうなのだろう。
慣れてきてはいるが、居心地がいいものではない。気にしてはいないつもりだけれど、あまりにしつこい視線はどうにもうっとおしい。
男の人であれ女の人であれ、若かろうとそうでなかろうと、それまでの何気なかった視線があたしのところで、一瞬、意味のある視線になる。「あら、それ、どうしたの?」と言うかわりに、もの問いたげな視線や表情で疑問を投げてくる。
そしておのおの勝手に納得する。「きっと、歯が腫れていたんでるのね。かわいそうに」とか「転んで怪我したのね。痛いのかしら」とか「ひとに見せられないあざがあるんだわ」というふうに。
顔の四分の一近くを、肌色とはいえ皮膚とは異質のテーピングテープを張りつけている女などこの世にそうそういるものではないから、人々の好奇心は至極当然だ。普通でないものを見た時の自然な反応だろうと思う。逆の立場だったらあたしもそんな風であるかもしれない。
しばらく見つめたあとは、目を逸らすひと、執拗に見つづけるひと、それぞれいるが、見も知らぬ行きずりのひとが、初対面でそれ以上に踏み込んでくることは少ない。少ないがまるっきりないわけでもない。時折、不躾に問われる。
「あらまあ、そこ、どうしてったいうの?ふふ、歯でも腫れたのね」
洗面所の隣の老婦人はわざわざ自分の左頬に手を当ててこっちに向き直り、問うた。
自分の調子のよい時ならにこやかに「ええ、ちょっと」と答えてすませる。こころのなかで「あなたなんかに教えてあげない」ぐらいの気持ちでいるのだがそんなことはおくびにもださない。
ところがその日はどうも調子が悪かった。体調が悪いと言うのではなく、家族のことで問題を抱えていて少々苛立っていた。わずらいごとはいつも湧いて出る。そこへ追い打ちをかけるような、その老婦人のしぐさが、こころのどこかにある傷口を引っ掻いた。
後先考えずに「悪性の腫瘍で顎の骨を取りました」と余裕なく真面目な顔で答えてしまった。見ると鏡のなかの自分表情がかたい。
初対面でいきなり頬のことを聞いてきたひとに、ありのままを答えて、その結果が良かったことなんてめったにないし、嫌な気持ちになるばかりだとわかっているのに、いらいらとした思いでそう言ってしまった。
すると老婦人は胸に手を当てて一歩下がって「おお、こわいこと」と言った。まるで不治の伝染病患者にあったような顔をして。
その顔をみて、私は我に返った。そうして、「ふふ」と笑ってみせた。丁寧に手を洗い、それを拭きながら「ええ、こわいですよ。いのちがかかってますから。お気をつけあそばせ」と鏡のなかのそのひとにむかってゆっくりと言った。
小さい目が見開いていた。薄茶色のブラウスが残像のように目に残った。しゃれた小花柄だった。
長居は無用とばかりに出口に向かった。知らず知らず急ぎ足になる。診察室のある二階へと階段を上りながら「おお、こわいこと」とつぶやいてみた。
私が私でありつづけることはけっこうつらいな、という気がしてきて、深く大きなため息をついた。
思いついて「てやんでえ」と言ってみた。そしたら、いろんなことが「てやんでえ」の気分になってきた。
「おきやがれ」とも言ってみた。その伝法な語感が自分のなかに心地良く響いていった。そうだ「おきやがれ」だと思った。大きく息を吸い込んで、残りの階段を一気に駆け上がった。
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