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ざつぼくりん 58「永遠のかくれんぼⅡ」(最終話)
華子が大人びた表情でうつむいている。
華子にはどうやらボーイフレンドが出来たようだ、と志津が言っていた。編み物を習いたいと言い出したのは、バレンタインのプレゼントのためらしい、と。孝蔵がいたら、そんなもんやらなくったって、華ちゃんはべっぴんさんなんだからな、みんなほっとかねえさ、というにちがいない。それを聞いた志津は、そうですねえ、でもおもうひとからおもわれなきゃ、つらいばかりですよね、なんて言い返すことだろう。そんな会話ももう二度と聞けないのだが。
視線を落としたまま華子が「そういえば……」と言い始めた
「孝蔵さんの一周忌の法要の日、お寺からの帰り道で、カンさんが『早いものですねえ。一年がたってしまったんですねえ。孝蔵さんはもうこの世のどこにもいないのに、病室で聞いたあの苦しげな息が耳の底に張り付いてしまって、どうにも剥がれないのです。あんなにいいひとがいなくなって、無念です』っていってたの。すごく沈んだ声だったわ」
あれは夏の盛りだった。そよとも風の吹かない日で、空気が重かった。寺の境内には銀杏が茂り、その木の間を読経が漂っていた。その銀杏の向こうの墓で、孝蔵は純一といっしょに眠っていた。細切れの記憶が絹子の脳裏にちらつく。後ろ髪をつかんだ時生がそのあとを続ける。
「そうだった。僕たちみんな沈んではいたんだけど、特にあの時のカンさんは、ほんとに顔色も悪かったし、うつろな感じの目だったなあ……そのあとはため息ばっかりついてた。……カンさんは自分のたいせつなひとはみんな死んでしまうって、前に言ってたけど、孝蔵さんがいなくなって、また、そんなふうに思うようになったんじゃないかなあ……」
時生の言葉に絹子と志津がうなずく。
「ああ、そうでしたか。……つらいことが多かったひとなんですねえ……孝蔵さんともかかわりの深いかただったらしいから、思いつめて憂鬱な気分になっておられるのかもしれないなあ」
「はー、そうかもしれないわねえ。……カンさんは、さてね、なんていってうまく誤魔化して、めったに口にはしないけど、誰にも言えないようなことが人生の前半にあったそうよ。孝蔵さんがそう言ってたわ……孝蔵さんが入院したときも葬儀のときも、ずいぶんかばってもらって、親身になって心配もしてもらってありがたかったんだけど、カンさん自身もやっぱりつらかったのよねえ」と志津がしみじみと言う。
それに応じる「孝蔵さんは特別な存在だったから」という華子の声も深い。絹子はそれぞれのこころに穿たれたものの大きさを思う。
「ああ、そうなんでしょうねえ。志津さんのお話をうかがっていてそう思います。しかし、カンさんはたくさんのものを封印されてるんでしょうね。でも、つらくても言葉にしてしまったほうが楽になることもあるのですが……」
志津は時間をかけて、次郎につらい思いを告げることで少しずつ元気になってきた。
「それからしばらくしたら、前みたいにしょっちゅう木札がかかるようになったのよね」
絹子がそういうと、次郎は木札を手にとってしげしげと見つめ、つぶやく。
「……この木札はどういうものなんですか?」
「それはね、雑木林の本日休業の理由が書いてあるの」
「えっ? ざつぼくりん? ぞうきばやしじゃないの?」
「ふふ、実は雑木林と書いてざつぼくりんって読みます」
「へー、それはまた、なんで?」
「さあ、それはカンさんに直接きいてください」
「それはヒミツなのかな……しかし、これが休業の理由ですかあ。永遠のかくれんぼ、ですか。ひきこもりのようにも聞こえて、ちょっと不安になりますね。」
「こんなのまだましなの。『無限地獄へ行ってます』だの『閻魔大王に呼ばれたので』だのぎょっとするようなのもあるの」
「いや、それはなんだかなあ……でもカンさんは中には居られるんですか?」
「はい、たいがい居留守です。その木札の意味はだれにも会いたくないってことなんですけど、僕、なんか今、すごく心配になってきました。もしかして、なにかあったのかなあ……ひょっとして病気とかで具合でもわるいのかなあ。だいじょうぶかなあ」
木戸の木目に手をあてて、時生が言うと、木戸は文句を言うように少し軋む。
「うちの木戸は少々偏屈もので、開けるにコツがあるんです。おだてるように、くいっと持ち上げるようにすると、機嫌よく開いてくれます」とカンさんが言っていたのを絹子は思い出す。
「とうさんたら! そんなことないもん! カンじぃはだいじょうぶだもん!」
多樹が腰に手を当てて、怒ったように言い放つと、沙樹もそれにならう。
「ああ、ごめんごめん。そうだね、だいじょうぶだね」
木戸の前に出てきたふたごが手を当てると木戸は鳴りをひそめる。ふたりは声をあげてカンさんを呼ぶ。
「カンじぃー、あそぼー、ここ、開けてー」
「カンじぃー、寝てるの? 起きなさーい」
シンと静まり返った「雑木林」にふたごの声が転がるようにして響いたとたん、カラスが一匹、こりゃあうるさくてかなわんとばかりに、もろもろ混沌とした庭の板塀の上から、大きな羽音をたてて飛び立った。
「あ、あれはケンだよ」と、見覚えのある姿に気づいた時生がその名を教える。
「あ、ほんとだ。ケンだわ。久しぶりに見たわ」と華子も声をあげる。
「そうね、そろそろ巣作りの季節だから、きっと、カンさんちの洗濯物から針金ハンガーをもらいにきたのよ」
「洗濯物からもってくの?」
「ええ、そうなんですよ、次郎さん。カンさんが干したTシャツからハンガーを抜きとっていって、しかも、驚くことに、そのTシャツをふわっと竿にかけておくんですよ。まあ、ぼくらが実際見たわけではないのですが、カンさんが言うにはそうらしいんです。前にカンさん、待ち伏せして、観察したらしいんです」
「ほおー、カラスがそんな芸当をするの? ほんとに? オドロキだなあ。うちの孫、動物好きなんで教えてやろっと。びっくりするだろうなあ」
「カンさんが、賢いカラスだからっていうんで、ケンっていう名前をつけたんです」
「名前までつけてるのかあ。カンさんも興味深いひとだなあ。会ってみたいな」
「そうなんです。カンさんは素敵なひとなんです。誰だってカンさんのこと、すごくすきになりますから」
華子が誇らしげに答えると、木戸の前に並んだみんなが、次郎のほうを向いてにっこりうなづくのだった。
「しかし、ずっと返事がないみたいだけど……。お留守じゃないのかな」と次郎。
「ちがうもん。カンじぃはいるもん」
「かくれんぼしてるだけだもん」
ふたごが力んで言う。
この「雑木林」のうっそうとした庭で遊んだ幼い日のかくれんぼ。もーいーかい、といいながらカンさんは鬼になってふたごを探した。小さなふたごは木々の間や灯籠の陰にその身を隠す。カンさんの声が近づいてくると、ふたごはワクワクして、うっかり声をあげそうになる。その気配を察知してカンさんがふたごを見つける。それはカンさんとふたご、三人の蜜月のような時間だったのかもしれない。
小さく生まれたふたりもそれなりに大きくなった。四月から小学校へ入る。時が移れば、ふたごの世界は加速度をつけて外へと広がっていく。成長しているのだとよろこびながらも、膝のあたりが薄ら寒いような感覚をカンさんももったのではないのか。
そうだ、幼いふたごがそうであったように、かくれんぼは見つけてくれると思うから隠れるのだ。ならば、こんどはこちらが鬼になって、カンさんを探しに行こうではないか、と絹子は思う。
そして、カンさんを見つけたなら、告げねばならないことがある。絹子のおなかには新しいいのちが宿っている。それは、おとこのこだとわかっている、と。
ざつぼくりんに多樹と沙樹の声が響く。
「カンじぃ、めっけにいくよー」
「もーういーいかいー?」
(ざつぼくりん 了)
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