先生たち 9 なかむらせんせい

高校時代は新聞部、大学では文芸部に所属したのだけれど、主婦になり二児の母になったあたしは日々の家事に追われて、日記すら書かなくなっていた。

そんなあたしにふたたび文章を書き始めるきっかけを作ってくれたのが、息子たちが通っていた幼稚園の園長であるなかむらせんせいだった。


そのころ、祖父を亡くした長男の元気がなくて、そのことについて、なかむらせんせいと手紙で何回かやりとりをした。明るく接するようにと助言され、事態は時間をかけて次第に好転していった。

せんせいは当時、カソリック系の幼稚園に向けて発行されている「ひかりの子」という冊子の編集の仕事もされていて、それに載せたいので長男のことを書いてみないか?と言われたのだった。

こわいものしらずでなんとか書いたものが載った冊子を見たときは、なんともうれしいことだった。いささかほこらしくもあった。

そしてそれが文章を書いて報酬を得たはじめての経験だった。


その後、次男も同じ幼稚園にお世話になったのだが、こちらは体の大きなお子さんに苛められて、登園拒否をするようになった。

そのことについても手紙のやりとりをしたし面談もした。試行錯誤はあったけれど、やがて次男はその子に立ち向かうようになったのだった。せんせいはわがことのようによろこんでくださった。

そのことも「ひかりの子」に書かせてもらった。

そんなご縁で卒園後も手紙のやりとりは続いていたが、時間が経つにつれて次第に年賀状交換程度になってしまっていた。

その間、バザーなどでお会いする機会はあった。

しもぶくれ気味のふっくらしたお顔の輪郭、丸いめがね、厳格にも柔和にもなった細い目、凛とした物腰と多少アイロニカルは言い回しは変わらなかった。

しかし、ご高齢であり、心臓の状態がよろしくないという噂も聞いていた。


12年前、わたしが病気になったことを知った先生は、何度もいたわりの手紙を下さった。そしてわたしのかわりに友人に行ってもらいますから、
という連絡があり、せんせいの30年来の畏友であるというマサコさんが、たずねてきてくださったのだった。

そのごマサコさんともお付き合いは続くのだが
その2,3年後にせんせいが亡くなったのだった。

昔の郵便物を入れた箱の底に、せんせいからの手紙は眠っている。包装紙の裏側で作った封筒に、せんせいのたてに伸びたクセのある字でわたしの名前が書いてある。

たくさんの不義理をしてしまったのに、元気ならいいのです、といつも書いてくださった。

今、こんなふうに文章を書き続けていることを、天国のせんせいはどうおもわれているだろう。


元気ならいいのです、と笑っておられるかもしれない。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️