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そんな日の東京アーカイブ 目黒

目黒の自然教育園へいった。

名札をつけた野草が少しばかり恥ずかしそうに顔をのぞかせている。ギボウシ、ハルシオン、ワレモコウ、ヤマブキとおなじみの名前の横に聞いたこともない名前が並ぶ。声にだして唱えてみるのに、次の名前を唱える頃にはすっかり忘れている。

都立の庭園と違って、ひとの手があまり入っていない豊かな自然のなかでたくさんの木々に出会う。そこでは、陽の光を奪うあうように木は高く高く空を目指す。はるか頭上に松の枝の緑が濃い。

名前は記憶にあっても見分けのつかない木々に出会う。ああ、そうか、君がエノキ、君がムクノキ、なんだなとわかったつもりでいても、しばらくたつと、また見分けがつかない。

「緑の葉っぱの木」の名前は思いのほか難しい。際立った特徴があるものしか記憶回路に残らない。人間とおんなじだなと苦笑する。

それでも、なんどでも、この木はなんだろうと知りたく思っている。記憶力に難ありの最近の自分がこんな風に懸命に、めげずに覚えようとしていることが我ながら興味深い。あたしはこんなふうではなかったのだ。自分の興味のありどころの変化に驚いている。

「緑の葉っぱの木」は、にわかに身近なものになってきた。いままでは遠景でしかなかったものにピントがあってきたような感じだ。

あたしの作文の評に「ひとしか見ていない」というのがあった。ああ、そうか、と思った。

だれかといると、その人ばかりが気になってしまう。その向こう側に広がるものに目がいかなかった。

一人でいれば自分が気になる。そばに何があっても自分の思いのなかに沈んでいって、目に入りながら見ていない風景のなんと多かったことか。

それ以上に、たぶんあたしは今、ひとに疲れているのだろうと思う。

ずっと、人間が一番おもしろいと思ってきた。どの人生にもあたしをひきつけるものがあった。ああであろうかこうであろうか、と思いをめぐらすことも楽しくてならなかった。

基本的にはこれからも、そんなふうにひととかかわっていくのだろうけれど、それでも、なんだか疲れちゃったんだな。

よくわからないけれど、こころ弾まないんだな。こういうのを、むなしいっていうのかもしれないな。

そんな時に幸田文さんの「木」を読んだ。そこにあらわれる木の命に触れているうちに、なんだかとんでもなく欠けた世界しか見てこなかったのではないかと思えてきた。

そして、それを補うように、幸田文さんの言葉が慈雨のようにこころを潤した。ありがたかった。救われたような気分だった。

「木」を読んで以来外に出ると、植物が雄弁になにかを訴えているように思えてきた。あたし自身の思い込みの撥ね返りなのかもしれないけれど、それ以来、私と木はおだやかに語り合っている。

まっすぐ伸びられない幹がくねりながら天に向かう木を心底いとおしく思ったりもする。

広い自然園を歩き回って、疲れたなあと思いながらも植物事典のページをめくっている。ああこれもあったあれもあったとアイドルを追うような眸になってなんとも、わくわくしている。
 
「緑の葉っぱの木」になぐさめられている。

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bunbukuro(ぶんぶくろ)
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️