書く情熱
忘れていたひとの便りが、昔読んだ本のあいだから現れる。ああ、そうだった、と思い出すのはそのひとのことであり、その時の自分。
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「停電の夜に」を読み直す。
この本を読んでいると、小説は場面の積み重ねであり、人生の機微だな、とか、わかったようなことを言いたくなる。
うまい。
そんなふうに書くために作者はどれだけたくさんのものをその眸で切り取ってきたのだろう。
その本のページの間に、はがきが数通挟まれていた。そのなかにおおたかじゅんこさんからきたものがあった。
おおたかさんのはがきは毛筆でしたためられているのだが、達筆すぎてよく読めない。
彼女は以前、カルチャーで知り合った70歳を少しでたくらいのひと。もうやめてしまったのだが、わたしが通う以前からずいぶんかなり長く在籍したらしかった。
なのに、教室で一度も作品を提出したことがないのだと言っていた。
「このおおたかじゅんこが書くのですから半端なものは出せないと思って」
そこにあるのは強烈な自意識。自分が注目されているのだという矜持。
たしかにかつては美しかったであろうという面立ちで、育ちもおよろしかったであろうというたちいふるまいだったが、足がすこし不自由だった。
くわえて、おおたかさんは超能力があったのだという。建物の跡地に立つとそこでの出来事が伝わってきたり、行方不明のひとの安否がわかったりしたのだそうだ。
原因不明の病に倒れたことや精神のバランスが崩れたこともあって入院生活を送り、そこでまた数奇に運命のひとたちに出合ったことなど、その人生のエピソードは人並み外れている。
だからこその「このわたしが書くのですから・・・」の言葉なのだろう。
しかし、彼女の人生のどの切れ端も原稿用紙を埋めることはなかった。
書きたい情熱と書く情熱は違うのだと改めて思う。
そして書き続ける情熱もまた別のものだ。
何かが自分の心を動かした時に、文章が生まれる。フレデリックという詩人のねずみが色や光や言葉を集めたように、文章を書くためには、そのなにかをこころに蓄えていくことが必要なのだ。
ページをめくるたびにそんな思いが強くなる。