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ふびんや 10「カタオカ Ⅱ」

「気いなごうして待ってよ」というのがふたりの合言葉だった時期がある。京都でも東京でも、いつもふたりは恵吾の気配を待っていた。「ただいま」の声が聞こえるのが、今日かもしれない、明日かもしれないと思いながら暮らしていた。

「そうだね……」とひなは頷いた。

師走の風は道行くひとを脅すようにとんがって吹き付ける。そんな風に狙われたふたりは一瞬小さく息を吸って首をすくめ、無意識にコートの襟を立てる。肩をすくめマフラーの襞深くに顎をうずめて、ひなが呟く。

「でもさ……リハビリって……ほんとにつらいんだよね」

十歳のひなも歩行のリハビリをしていた。複雑骨折をした足でなんとか世の中を渡り歩くために、トレーナーは律儀に指導してくれた。それは柔軟という言葉が科す苦行だった。伸ばされた筋肉は拷問を受けたように軋んだ。

思うように動かない筋肉の落ちた足。その腿に残る大きな傷跡。自分の足でありながら自分の意思に反応しない、その情けなさ。泣きながら睨んだ白い壁と進まない時計。

外に出れば、車椅子や松葉杖が集めてしまうひとの視線。ひとと違うことが生み出す仲間はずれ。引きずる足が近づけも遠ざけもするひとのこころ。背を向けるように自分のこころのなかに作ったちいさな独房。つらいことがあると思いが逃げ込むところ。だれにもじゃまされない安全な自分の居場所。十年がたった今も、ひなはそんな記憶をも引きずって歩く。

遊歩道の植え込みの常緑樹がかたい音を立てて風になびく。葉陰からちらっとのぞく寒椿の赤い花弁が曇り空に映える。自転車のベルが聞こえ、前にも後ろにも山ほどの荷物を積んだ買い物帰りの自転車がふたりを追い抜いていく。乗り手である中年の主婦は上体をすこしかがめ、風に向って力強くぺタルを踏む。その姿にふっと日常が帰ってくる。

「……あかねちゃん、家のこと、大丈夫かな。お歳暮とか大掃除とか。年賀状書きもあるし……それから、今年はおせちとかどうするんだろう。うちのおせち、持っていこうか。また薄味だって言われるかな」

細かなことを気にかけ始めるひなに、あずの表情もゆるむ。

「心配せんでもあかねちゃんは大丈夫やて。あんたとちごて要領がええもん。なんでもちゃっちゃっとこなしていくし、おせちもちゃっかりどっかから調達してくると思うわ」

「あのねえ、わたしと違ってって……よく言うわねえ。わたし、そんなどんくさくないよ。でもあかねちゃんだってやっぱり摂おばさんがいないと、こころ細いんじゃないかなあ」

「それも大丈夫。アルゼンチン人の彼氏がいるねんもん、さびしいことはないて。お相手はロドリゲスとかいうたかないな」

「ロドリゲスって……ふふふ、母はほんとにいい加減ねえ。わたし、あかねちゃんから名前なんか聞いてないよ。それ、どっから思いついたの?」

あずは一瞬とぼけた顔つきになってから笑ってみせる。

「ふふ、どっからやったかいなあ。けどまあ、どっちにしろ、だいたいそんな感じやと思うわ……それより心配なんは統三さんや」
「そうだね。おじさん、ああ見えて寂しがりやだもんね。仕事場で見かけると、このところ、なんだかしぼんだ感じがするよね」

夫婦と子供が四人、それに先代夫婦がいた時代に、あの家には笑い声や怒鳴り声が満ちていた。ひなはそのにぎやかさがすきだった。ひながいてもいなくても変わらないように見えながら、それとなく案じてもらっていた。いつも煙管を片手に長火鉢の前に陣取っていたおばあさんは、ひなをみると引き出しから飴を出してくれた。茶色いどんぐり飴の甘みはいつまでも口の中に残った。

今はあかねと統三のふたりだけが暮らすその家はなんだか暗い。摂の不在は停電のようだとひなは思う。

「そうやなあ。あのおひとは鬼瓦みたいな顔したはるくせに、よう泣かはる」
「ねえ、母の言い方って時々容赦ないね」
「そうかて、ほんまのことやんか。いつでも、統三さんが先に泣いてしまわはるさかいに、摂さんが泣かれへんのや」

喜怒哀楽にも旗取り競争がある。先に浸ったもの勝ちなのは、酔っ払いの介護と同じだ。先を譲る人間のはらわたにはいつも未消化な感情が残る。十年の付き合いのなかで摂はあずにそんな思いをうちあけていたのだろうか。

「うーん、わかるような気がする。あかねちゃんが、とうさんは子供みたいなとこがあってまいっちゃうって文句いってた」
「まあ、大なり小なり、おとこのひとはそんなもんやけど……」と、言いかけた言葉の途中で、あずは「あれー?」と大きな声をあげた。

「どしたの?」
「あそこー、更地になってしもてるわ」

あずが指差した場所は遊歩道沿いの建てこんだ住宅街の一角で、細いロープがぞんざいに張られた、まるでなにもない空間だった。ふたりが近寄ってのぞいてみると、掘り返した跡のある地面に、水道の蛇口をつけた高さ五十センチほどの錆び付いた配管だけが、記念碑のように真っ直ぐに立っている。

「ここ、知ってるお家なの?」

「ほれ、うちにある姫鏡台をくりゃはったおばあさん、あのおひとのお家や」
「へー、あの桑の木の……あれ、いい品物だよね。わたし、気に入ってるの」
        

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