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ざつぼくりん 50「次郎Ⅲ」
坂の途中にその家はあった。二回乗り換えして一時間余りかかった。所番地を確かめ手になじんだ地図帳を閉じる。板塀からのぞく植木の細枝が木枯らしに吹かれ、しなっている。さぶいな、と次郎は首をすくめる。木戸の脇に木の表札がある。沢村孝蔵。かっちりとした筆文字だ。何事もおこらなかったかのようにかつてのあるじの名がそこにある。男名前の表札がいらぬトラブルを未然に防いでくれることもある。今はもうここにはいないひとの名がこの家を守っている。
「……どなたですか?」
インターフォンから志津の声が聞こえた。どことなく警戒したような声だ。これが一人暮らしの声だと次郎は思う。
「『いとでんわ』から来ました」
「はい。うかがってます。今、いきます」
木戸が開き、前髪を真っ直ぐ切りそろえたおかっぱ頭の志津が現れた。勉に見せてもらっていた写真とは別人のようだ。痩せて白髪が増えたこともあるが、目の光が失せているような気がする。
「はじめまして」とあらためて挨拶する次郎に志津はだまって頭を下げ、部屋へと案内した。うつむいて前を行く志津の薄い肩が頼りなくみえる。途中の廊下で志津は急に立ち止まって振り返り「えーっと、どこでお話すればいいかしら?」と次郎に聞く。不安げな顔つきだ。次郎は笑みを浮かべ、ゆっくり答える。
「どこででも。……沢村さんがいちばん落ち着かれるところがいいかな」
「あの……ダイニングテーブルでもいいかしら? わたしね、台所にいると安心なんです。そういうたちなの……」
「ああ、いいですねえ……沢村さんはお料理がお好きなんですか」
移動しながら次郎が聞くと、間をおいて志津は独り言のように答える。
「……食べてくれる人がいればね……」
勧められた席に座るとそこからは台所に立つひとの後ろ姿がよく見える。すっきりと片付けられたテーブルに何の名残りもないが、ここはきっと孝蔵の席であったにちがいない。志津が湯のみに白湯を注ぎ温め、手際よく盆に茶托を出し菓子皿を並べる。それから包丁をぬらして羊羹を切る。考えなくとも体が動く、そんな所作に見える。
「どうぞ、おかまいなく」
視線を動かすと、部屋の調度が目にはいる。小柄な志津の使い勝手がいいようなサイズの台や棚は大工だったという孝蔵が作ったものにちがいない。クッションやひざ掛けは志津の手作りだろう。ひとの持ち時間にかかわりなく朽ちるまで、物はそこにあり続ける。その先で庭の植木たちがそろって何かを訴えるように風に揺れている。手入れされているようには見えなかった。
「今日は風が強くて、えらく寒いですねえ」
「ええ、お部屋の温度、これでいいかしら。ちょっとヒーターの温度あげましょうか」
いったん腰掛けた志津が立ち上がろうとするのを次郎が止める。
「あ、大丈夫です。どうぞ、お座りください。僕、お話を聴きにきたんですから」
「えっ、でも……あの……多恵ちゃんはいろいろ説明してくれたんだけど、わたし、ちょっとよくわかんなくて……お話って言われても……はじめてお会いするひとに、なにをどう話していいのやら……」
次郎は名刺を取り出した。
「あ、失礼しました。わたしはこういうものです……城島次郎と申します……えー、孫にはじいちゃんではなくJ・Jと呼ばせてます」
「まあ、お孫さんがいらっしゃるようには見えませんね。そうなんですか。しゃれた呼び名ですね……」
お愛想のようにそういいながら、志津は老眼鏡をかけて名刺を仔細に見る。
「……あの『いとでんわ』っていうのは宗教のグループかなんかなんですか?」
「いえいえ、こんな髪とヒゲ面してますが、わたしは宗教とはまったく関係ないです。実はグループと言ってもわたしと娘しかいないんです。娘は小さい子が専門で、ふたりで傾聴をしております。要請があればホスピスや災害地に赴くこともありますが、ほとんど口コミで、利用されたかたがたの紹介という形が多いです」
「ああ、じゃ多恵ちゃんが頼んでくれたの?」
「多恵さんには以前、トクさんのお話をうかがいました」
「そうだったの……」
「わたしたちはそんなかたちで紹介されました個人のご家庭にうかがいまして、事故や病気でたいせつなかたをなくされてこころが波立っているかたのおはなしを有料で傾聴させていただいています」
次郎はそこで言葉を切って、通じているか、と志津の顔をうかがう。志津はゆっくり頷いて聞いている。
「絡まった糸のようにもつれたり、切れそうにひきつれたりするつらい想いがだんだんほぐれてまっすぐになって、その想いを言葉にしていただければ、と願い「いとでんわ」とつけました……あの、ここで話されることはわたし以外の人間が知ることはありません。わたしがなにかしらを強く申し上げることもありません。わたしはただ、あなたと一本の糸で繋がるいとでんわの片側を耳にあてているだけです。」
てれくさい物言いだと思いつつ、次郎はいつもの決まり文句を告げる。
「はじめたのが女房亡くして五年後からだから、かれこれ十五年になります」
「まあそんなに長く……」
「はい。長いですね。あの、さっき申し上げたのは一応わたしの能書きですが、実は、極楽寺の坂東勉が志津さんのことをとても心配してるので、きました」
「まあ、勉ちゃんとお知り合いなの?」
一瞬志津の目が光る。
「はい。近所に住んでます。町の消防団でいっしょなんです」
「そうなの? あの子、いい子でしょう? 昔はけっこう無茶してたけど」
あの子、という呼び名が耳に残る。
「ずいぶんこちらで可愛がってもらったらしいですね」
「勉ちゃんもトクちゃんもほんとに若くて元気な子たちだったわねえ。はじめてきたのは二十歳前だったけど、めずらしく動き惜しみをしない子たちだって孝蔵さんがいってましたよ。いっつもふたりいっしょで仲良かったわねえ……」
孝蔵の名を口にしたとたん、つくりものに生気が宿ったように志津の表情と声がやわらぐのがわかる。
「ふたりはここにもよく来ていたんですか?」
「ええ、特に若いころはお金がないでしょ? よく夕飯食べに来てました。トクちゃんは少食だったけど勉ちゃんは食いしん坊でねえ、炊飯器が空になるまで食べてたわねえ。でも食べ終わったらふたりともちゃんとお茶碗洗ってくれたのよ。」
「勉ちゃんは体、でかいしね」
「ふふ、そうなの。何作ってもおいしいおいしいって言って食べてくれた。お正月に来てお餅をいっぺんに十個くらい食べたこともあった。……そうだ。ふたりとも魚がすきでね。煮ても焼いても猫が跨いでいったみたいにきれいにたべるのよ。小気味よかったわねえ。孝蔵さんも目を細めてるって感じだった」
「二人とも湘南の育ちだから」
「そうなの。気性がさっぱりしてたわ。釣りがうまくてね、ふたりとも。いつもお世話になってるからって釣れたお魚持ってきてくれて、ふたりでさばいてお刺身食べさしてくれた。孝蔵さんが新鮮でこりゃあ、うめえやって……」
「孝蔵さんはお刺身がすきだったんですか?」
「そう、マグロの赤身だのカツオのたたきがすきでね。結婚してしばらくたったころだったかしらね。刺身の味は包丁の切れ味で決まるんだからっていって、お金もないのに高い刺身包丁買ってきてね、ふふ、切れ味よすぎて、よく手を切ったわ」
そういいながら志津はいとおしげに自分の指先を撫でる。茶色いシミが点在する手に、見えない傷跡を探しているように見えた。
「わたしが『あいたっ』っていうと、『ばかやろう』って言いながらそこから飛んできて、切ったとこ舐めてくれたわ。『きいつけろ』って怒鳴るんだけど、ちっともこわくなかったわ」
次郎はだまってうなづきながら、その場面を思い描く。このひとは可愛い新妻であったにちがいない。ふっと次郎自身の思い出が重なる。孝蔵の、守らなければならないものができたよろこびとうらはらの不安は、かつての次郎の身のうちにもあった。
「あのひと、自分が怪我するよりまわりのひとが怪我するほうがつらそうに見えたもの。現場で怪我したひとのことそりゃあ心配したものだったわ。けど、そんな弱み見せられないから、ついつい怒鳴っちゃうのね」
次郎はただうなづく。
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