ふびんや 24「片袖袋 Ⅵ」
さくらのバッグを包装し始めると、あかねが急に大きな声を出した。
「ああ、思い出した。かあさんから聞いたわ。あの時、ひなちゃん、外人さんの夜逃げの手伝いしたんだって?」
「ちがうってば、夜逃げした外人さんの家の後片付けを手伝ったの」
「でも、さくらねえのために、なんか中国の骨董の引き出しみたいなの、せしめてきたんしょう?」
「せしめてって……もうー、あかねちゃん、それ、本気で言ってるの?」
「うううん、ひなちゃんがそんなうまく立ちまわれるわけないって思ってたよ」
「なんだかなあー。あれはバーバラがおしつけてきたんだからね。そこんとこ、よろしく!」
「了解! で、外人さんが夜逃げした家ってどんな感じだったの」
「そんなのひとことで言えない」
「こわい?」
「て言うより、せつない」
ひなが案内されたのは、S坂から少し入った、公園の向かいにある洋風の二階建ての一軒家だった。駐車場には車はなく、子供用の自転車が大中小の三台、バーベキュー用品のそばに、所在なさそうに並んでいた。
地植えのゼラニウムばかりが元気よく伸び、見捨てられた植木鉢の葉はその先端から朽ち始めていた。見上げた空にカラスが飛び、繰り返し声高に鳴いていた。
バーバラがドアを開けると、締め切った家の中に充満する、たくさんのものが入り混じった匂いが襲うようにふたりを出迎えた。それはあまり心地のよい匂いではなかった。バーバラが眉をひそめているのが見えた。
玄関の靴脱ぎにはサイズの異なるたくさんの靴が散乱していた。スニーカー、革靴、サンダルがそれぞれの相手を見失っていた。
一家が夜逃げをしたのはここからだろうか。混乱しながら自分たちの靴を探した挙句、こうなったのかもしれない。
廊下の左側のダイニングに入ると、大きなテーブルの上に口の開いたコーンフレークの箱が倒れていた。その横に鮮やかな原色のマグカップとスプーンの入ったままの皿が並んでいる。
童話のなかのくまの親子がオートミールを冷ます間に散歩しているかのように、家族は今、ちょっと席をはずしていて、すぐに帰ってくるかのように見えたが、鉢に盛られたバナナが茶色く変色して、時間の経過を教えていた。
調味料や洗剤、スポンジ、布巾、スーパーの袋、コーヒーメーカー、ポット、トースター。
どこの家のキッチンにもある、普通の暮らしに当たり前に必要なものが、そのまま置き去りにされている。どれもがその続きを待っているかのようにそこにあった。
「あの家が特別だったのかもしれないけど、家族みんながさっきまでそこにいたみたいに、いろんなものが、途中なの」
「途中かあ。あ、ポンペイの噴火みたいな感じ?」
「まあ、そこまでなまなましくはないけど、なんていったらいいのかなあ、気持ちがそこに残ってるみたいな感じがして、しんどかった」
「ひなちゃん、敏感だもんね、そういうの」
バーバラは流しの上の扉を全て勢いよく開けた。扉のなかはどこも統一感なく色とりどりの物で溢れていた。高額そうなタッパーウエアーもいささか乱雑に詰め込んであった。
バーバラは中の食器をどんどん出して、すきなものがあれば持っていっていい、と英語で言った。よくはわからないが、たぶん、そう言っているのだろうとひなは思った。
片言の日本語を話すアメリカ人と片言の英語しか理解できない日本人は、表情や身振り手振りで互いの思いを推し量った。
「いらない」とひなは首を振ったが、バーバラはムーミンの絵柄の付いたマグカップを二つ、ひなに押し付けた。返そうとするとバーバラが睨む。キャラクターのミーは怒ったような目で、スナフキンは寂しそうな目でこちらを見つめていた。ひなは仕方なくバッグにしまった。
ふたりはテーブルの上や床に散乱した食べ残しや紙ごみなど、とりあえずいらないものをゴミ袋につっこんだ。袋はみるみるいっぱいになっていった。主を失ったものはすべていらないもののようにも思えた。
「ふたりだけでかたづけたんでしょう? で、英語は大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃなかったよ。辞書を持ってったもん。あとは表情と身振り手振りとカン」
「それでわかったんなら、ひなちゃんもたいしたもんだよ」
「でもさ、バーバラが家中ひっかきまわして、いろんなものを出してきて、欲しいもの、なんでも持ってっていいって言うんだけどさ、なんだか抵抗があってね」
「えっ、どうして?」
「だってさ、暮らしの最中みたいなところにいるわけで、もう二度と帰ってこないんなら、全部、いらないものになるんだろうけど、もし帰ってくるんなら全部捨てられないでしょう? 帰ってくるって信じたい気持ちもあってさ、そこらへんで振り子みたいに気持ちが揺れて、居心地がわるかった」
リビングにも原色が溢れていた。プラスティックのおもちゃの色だ。出窓にはスヌーピーやキティちゃんのぬいぐるみがおいてけぼりだった。テレビの前の黒い革張りの大きな肘掛け椅子は、高橋社長の愛用だったのだろう。歪み、へこんだクッションが主の体の重みを教えていた。
同じく革張りのソファに積まれた洗濯物は、取っ組み合いでもしたかたのようにもつれた塊になっていた。ひながそれをほぐして畳んでいるあいだに、バーバラはオーディオセットのそばの棚のCDを物色し、自分の気に入ったものをバッグに詰め込み、ひなにも好きなものを取っていい、と言った。ひなは返事をせず、おもちゃを一箇所に集め、床に散らばった新聞や雑誌を紐でくくり、それを持って廊下に出た。
その先に洗面所が見えた。何気なくのぞくと、洗濯機のふたが開いていた。洗い終わったものが洗濯機の縁に掛かっていた。干そうと取り出した途中で時がとまったかのようだった。
壁のフックに掛かった角ハンガーからは、おんなの子の小さな下着とピンクのブラウスがぶらさがっていた。ブラウスの胸のあたりには花の刺繍があった。それをはずして畳んでいると「トゥー アップステアー」というバーバラの声がして階段を上る足音が聞こえた。