ふびんや 36「枇杷屋敷 Ⅵ」
家が倒れたとき、康夫も二階の部屋で茂りに茂ったみどりに包まれて倒れていた。非常出口を示すデザインのような格好で、倒れてもなお歩き続けようとしているかのようだったという。外傷やたちの悪い病気はなく、単に栄養失調と脱水状態だった。今は心身の治療のため専門の病院にはいっている。
「みんながね、あの家が康夫ちゃんの命を救ったって言うのよ。あの家が倒れなかったら、康夫ちゃん、誰にも知られずにそのまま逝ってただろうって。
そうかもしれないけど、わたしは、康夫ちゃんはあの家のみどりに取り殺されそうになったって気がしてならないのよね。昔からさ、枇杷は家に植えるなっていうらしいじゃない。あの家にあそこまでみどりがなかったら、康夫ちゃん、ああはならなかったんじゃないかしらね」
みどりが母親の愛情の象徴であるなら、康夫はそのみどりに守られながらも、実はずっと苦しめられてきたんじゃないかしら、その結果がこれじゃないかしらと伊沙子は怪しむ。
「うちのが言うにはさ、あの家のガラクタとかいらないものの整理してるとさ、ものすごく昔のものが出てくるんだって。ものを捨てないおうちだったみたいね。そうそう、康夫ちゃんの子供の頃のものがまだ置いてあったみたいよ。
カビだらけのグローブに『まつもとやすお』なんてひらがなで名前が書いてあったりして、それがずっと取ってあったってことが、せつなかったって言うの。やっと生まれてきた息子と父親はキャッチボールしたのかなあ、そんな時代のことを、繰り返し思い出していたのかもしれないなあって」
家の中のものの多くは古かった。古いまま、そこにあった。そのどれも錆びたり朽ち果てたりして、使い物にならなかったけれど、仕立て屋の商売道具は油紙に包まれ念入りに梱包されて遺されていた。
康夫の未来のために遺していったものだったが、同時に康夫が一切手を触れようとしなかったものでもあった。
「ボタンだとかファスナーだとか、ご主人の思いが守ったのかもしれないけど、きれいなまま残ってたの。あずちゃんじゃないけど、それをみつけたうちのがさ、なんとかそれを成仏させてやりたいって思っちゃったのよ」
「へー、そうだったんだ。うちの母もあれで影響力あるのね」
「そうよ。うちのは、あずちゃんのこと、巫女さんみたいに思ってるわよ」
「ふふ、ずいぶん年増の巫女さんね」
「ははは、あずちゃんに言ってやろ」
あえて枇杷屋敷の話の余韻を消すように、ふたりは笑った。
「それで、それをどうするの?」
「だからさ、ほら、外人さんが残していたスパンコールのひな袋みたいにさ、それでなんか品物作ってもらってさ、売れないかしらって思うのよ。その売り上げを康夫ちゃんにやればいいってうちのも言うのよ」
「そうかあ。で、それをこの店で売るの?」
「ちがうちがう。こういうの知ってる?」
伊沙子が差し出したのは都内のフリーマーケット情報のパンフレットだった。いつどこでどんな規模で開かれるかのスケジュール表だ。
「あ、フリマね」
「えっ、ふりま? ああ、若いひとは何でも短くして言うのねえ。そう、そのフリマ」
「えーっと、この近くだったら、競馬場の駐車場ね。出店五百店舗のビッグフリーマーケット。土日でしょう? ときどき、母が古い着物地とか材料仕入れに行ってる」
「うん、それそれ。それでさ、たむら荘の火事で焼け出されたキューピーばあさんのこともあるしさ、いっそ、年明けにでも、チャリティーフリーマーケット、みたいなの、みんなでやったらどうだ、ってうちのがいうのよ。ほら、ここいらだって大掃除したらいろいろでてくるじゃない。そういうのも集めていっしょに売って、その売り上げをそれぞれにカンパしたらどうかって、いうのよ」
「そういうことなら、母に連絡して、いっぱいにもらってくるように言うね」
そう言ってひなは受話器を取り、留守録に伝言を入れた。
「……ひなです。詳しいことは帰ってから話すけど、伊沙子さんがチャリティのフリマでいろいろ売るから、うらなりさんのお道具、たくさんもらってきてほしいって。大きいつづらでおねがいします。よろしく」
それをそばで聞いていた伊沙子が笑いながら訊く。
「ふふ、いつもは小さいつづらなの?」
「うん。よくわかんないけど、母のきまぐれ超能力がかわいそうな品物をかぎ分けるみたいで、自分に語りかけてきたものだけもらって帰ってくるの」
「へー、ほんとに欲がないわねえ」
「だから何にも持って帰りたくないって思うこともあるらしいの。けど、それじゃあ、せっかく言ってくれてるのに申し訳ないから、そんな時は、そのひと自身の思い出のあるものにするんだって。あれで、母もいろいろ考えてるみたい」
「それが、ふびんやのふびんやたるところなのね」
「そう、ふびんなものしか置かないのです。」
「やれやれ、お金にはならないわねえ」
「ね、予定表じゃ、成人の日とかにも、フリマあるらしいから、それまでには、なんかできるんじゃないかしらね」
「そうかあ、それがいいね。明日、ボタンとかいろいろ持ってくるからさ、悪いけどおねがいね」
そこへ母娘らしい客が入ってきた。年恰好はあずとひな親子とおなじくらいに見えた。ふたりはなにやら相談しあいながら、店内を巡る。タイミングを見計らって伊沙子は「じゃ、そういうことで、よろしくね」と帰っていった。
「ママ、ちょっとお高いけど、わたし、やっぱりこれがいい。色がすごく素敵。」
娘が指差したのは鮫小紋のワンピースだった。試着するという娘にひなは、「これは鮫小紋の着物地で作ってあります」と言いながらトルソーから外したワンピースを手渡した。
着替えた娘は母の前にでてくるりと回った。長めの裾がふわっとひろがる。色白の娘に似合っていた
「ああ、サイズもちょうどいいわ。ほんとにいい色ね。気に入ったわ。どう? ママ」
「ええ、でも値段もいいしねえ」
母親は渋っている。ひなのほうを向いた母親が説明した。
「娘は結婚がきまってますのよ。なんだか支度がいろいろたいへんですの」
「それは、おめでとうございます。あのこれは、鮫小紋は色無地の着物と同格ですので、いろんなお席で着ていただけるとおもいます」
ひながあずの受け売りの口上を告げると、ふたりは感心したように頷いた。
「そうね。いいんだけど、手が出ないわ」
娘はなかなか諦めきれないのか、その後も何度もねだったが母親はうんとは言わなかった。しぶしぶワンピースを脱いだ娘に母親は声をかけた。
「今度来たときにまだあったら買いましょう」
「そしたら売れちゃうかもしれないじゃない」
「そうなったらそれはそれ、縁がなかったってことでしょう?」
「もー、意地悪!」
母親はひなに「ごめんなさいね」と声をかけ、出て行った。
「どうぞ、よいお年を。どうぞ、おしあわせに」
ひなは深く頭を下げた。
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