ふびんや 43 「闇坂 くらやみざか Ⅶ」
ドアの前にハルタが立っていた。もう泣いてはいないがまだ鼻が赤い。
「ほんなら、清岡はんからお許しが出ましたし、これ、預かっていきますわ。きれいにしてまたお持ちします」
「あの……ふびんやさん……あずさんでしたかしら……あなたに……あの、お願いしておきたいことが……あるんですけれど……」
階段を並んで降りながらハルタが言った。それまでのハルタらしくない歯切れの悪い言葉だった。あずにはなんとなくその意図がわかった。
「ハルタさん、大丈夫ですて。こう見えて、わたし、口は堅いんです。今日のことは、まあ、いっしょに仕事をしてる娘には言いますけど、よそのおひとには絶対口外せえしませんし、安心してください」
「あ、そう言っていただけるとありがたいですわ。ほっとしました。……ここだけの話ですが、旦那さんは若いとき、大旦那さんのお遊びのことでは、ほんとうに苦労されたんです。大旦那さんが亡くなってからも嫌な思いをいっぱいされてねえ、あんな病気になられたのもそのせいだったとわたくしは思ってますの」
「そうでしたんか。あの、ハルタさんは、こちらにはもうお長いんですか?」
「ええ、ぼっちゃん、いえ、センセイの小さいころからですからねえ。当時は奥さまがお忙しいかただったもんですから。まあ、行儀見習い兼子守でしたね」
「まあ、そんなに長く……まだまだお若いし、お元気やねえ。ハルタさんは」
「いいええ、ぼっちゃんがお独り身なものですからね、あれこれお世話しているうちにこんな年になってしまいました」
「いつまでもお元気でいたげてくださいね」
「まあ、ありがとう」そういうハルタの声が少し震えた。
あずは寒くて震えが来た。なまじ清岡の書斎であたたまったものだから、人形を梱包しに入った部屋の冷気がよけいに堪える。
「あの、さっき、娘から連絡が入りまして、地区のチャリティのフリーマーケットをすることになったらしいんですわ。それで、いただくお品が増えてしまいました。申し訳ないんですけど、あの荷物、代引きの宅配便でうちへ送ってもらえますやろか」
あずはあらかじめ住所を書き込んだ伝票をハルタに渡した。
「はい、承知しました。あのまま送ればいいんですね。……ねえ、ふびんやさん、そのチャリティのバザーでしたかね、日程が決まりましたらお知らせくださいませね。わたくし、かならず、うかがいますから」
「はい。承知しました。おおきに。どうぞ、よろしゅうに」
「あの、例の和風の小物も販売されるんでしょ?」
「……はい。もちろんです」
それを聞いて、ハルタはにっこり笑った。
「ハルタさんて、泣いたりわろたり、目え剥いたり、ほんまにいそがしおひとやったわ」
「へー、そうなんだ。でも、そこで話し込んじゃったから、冷えたんじゃないの?」
「そうかもしれへんな。ほんまにさぶいお宅やったわ」そう言ってあずは鼻をすする。
「でも、話を聞けば聞くほど悲しいさだめだね」
「そやなあ」
事情を知ってみれば、いよいよせつない。共に置き去りにされた少年と雛人形は、どれだけの時を向かい合ってすごしたのだろう。少年は母と過ごした短い時間の記憶を人形に重ねて見たのだろうか。それでこころはあたたかになったろうか。
その後、少年からも忘れられた人形はあの暗がりでどれだけの時間を食んでいたのだろう。どれだけ冷たい時間をすごしてきたのだろう。ああ、そして少年の母は残りの人生をどう生きたのだろうか。そんなことを、とつおいつ、その横顔に訊ねてみたいと、ひなは思う。
「てことは、このひと、一時預かりで、いずれあっちへ帰っちゃうのかあ……。なあんだ」
残念そうにひなが言う。京都でも東京でもふたりは自分たちの雛人形を持ったことがない。ひな壇に並ぶ人形たちはいつもあこがれながら眺める遠い存在だった。欲しくとも欲しいと言えない、そういう暮らしだった。
「そやけど、うちにあるもんはたいがい、そうやないの。ザット・イズ『ふびんや』や」気を取り直したようにあずが明るい声をだす。
「そうきたか。まあ、そうね。このひとだけが特別じゃないわね」
「まあ、いずれにしてもわたしらのできることはそうたんとはないわ。このひとをきれいにしてあげるくらいしかでけへん。どれもこれも、ご縁だけで繋がっていくもんやしな」
「あ、ご縁っていえば、その言葉、今日、聞いたなあ」
「誰にご縁があったん? 土門はんか?」
「ちがいます。小紋です」
「ふふふ、しゃれかいな」
「ちがうって、ほんとのこと。あの鮫小紋のワンピースなんだけどさ……」
ひなは午前中に鮫小紋の試着をした、結婚が間近だという客の話をした。
「娘さんはすっごく気に入って欲しがってたんだけど、おかあさんの方は値段が気に入らなかったみたいで、今度来たときに買いましょう、その時もうなかったら、縁がなかったってことだって」
「ふふ、それで売りそこのうたんか」
「うん。残念だった。これであの子もお嫁に行けるって一瞬喜んだんだけど……」
もとの着物の持ち主、若くして逝ってしまった少女のことをひなは思う。
「まあ、それでよかったんとちがうかな。そのおかあさんの言い草は体のいい断り文句にも聞こえるしな」
「そうかなあ」
「あんたはまだまだやなあ。ほんまに欲しいのに持ち合わせがないだけやったら、取り置きしてもらう手かてあるやんか」
「ああ、そういえばそうだね。お金の問題だけじゃないってことかもね」
「しかし、ほんまはあの鮫小紋のほうが、ひとを選んでるような気もするけどな。死んだあの娘さんが選んでるんや。こんなひとのとこ、行きたないって」
「また、母はそういうことを言うー。世の中にはそういうの気持ち悪がるひとだっているんだから、あんまり口にしないほうがいいと思うよ、うちも商売なんだからね」と、ひなが口を尖らせて言う。
あずやひなと違って、ひとの手を介したものを極端に嫌がるひとがいるのも事実だ。ものに宿っている思いを不憫に思うものもいれば、怨念のようでこわいというひともいる。それは感じ方の違いだから、どちらが正しいというものでもない。
「わかったわかった。あー、なんかお腹がすいてきたな。お昼ごはんにしよか」
「食欲はあるのね。よかった。ね、おうどんにしようか」
「ええなあ。あったまるなあ」
「その前に、このひと、二階に連れてくね。せっかく何十年ぶりかで闇坂を抜けて、明るい世界へでてきたんだもの、お日さま浴びさしてあげたいから」そういってひなは大事そうに雛人形を抱え、階段を上がっていく。
一段ずつ上がっていくそのゆっくりとした足音が聞きながら、あずは台所へ向った。
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小説ふびんやは未完です。ここであずもひなも動かなくなりました。
小説教室の先生は、早くあずを死なせてどっかに応募して、賞でもとっちゃってください、と笑いながら言いました。
えー、あずさん死ぬの?土門とひなはどうなるの?と尋ねるクラスの友人もいました。
さて、どうなるんでしょう。
ふびんやの時はここでずっと止まったままです。いつかふたりが動き出す日が来るのかなあ。どうかな。
とりあえず、連作はここでおわります。
長々、読んでくださってありがとうございました😊