そんな日のアーカイブ 北村薫講演 惜別の歌と高楼
対談をした。怪談だとか妖怪だとかいう話だった。やがてぬかるみの話になって、ぬかるみのぴちゃという音は妖怪が通っているようだと話していた。そこからにゅっと手がでてきそうな気もするなどと。
夏目漱石の「永日小品」のなかの「蛇」という作品に
木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹(あしあと)の中に雨がいっぱい湛(たま)っていた。土を踏むと泥の音が蹠裏(あしのうら)へ飛びついて来る」
という一節がある。ここでは、ぴちゃっという音が飛びついてくる。
昭和24年生まれの自分が育った埼玉にはぬかるみはあったが、今ではどこも舗装されて、若い人はぬかるみがわからないのではないか。そんなふうにいろんなものが変わっていく。言葉もそうだ。
テレビ番組で道行く人にある言葉の意味をたずねて、何人目でわかるかをためす番組があったが
若い人は「たいこもち」なんて言葉がなかなかわからなかったりした。
「お茶をひく」なんて難易度の高い言葉もたずねていた。派手な格好をした、いかにもわからなそうな女の子が即座に「相手がいなくて暇なことでしょ」と答えたのでびっくりした。職業を聞くと「キャバクラでーす」と答えた。
ああ、なるほどと膝を打った。かつて遊女や芸妓が暇なことをそういったのだ。この言葉は一般にはあまり使われていないがその業界では連綿と伝わっていたのだと感動した。
いろんなものが伝わるところでは伝わり、いろんなものがいろんなところで消えていく。
本好きな人へのこういう短歌を紹介した。
残業は 引き続きいて ポケットに 少女の名前の 活字秘めつつ
それを聞いて本好きなひとは、「名前のあるところををコピーして切り取って持っているのか」と聞いた。
もはや活字の存在がわからなくなっている。「銀河鉄道の夜」でジョバンニが活字ひろいのアルバイトをしていたんだと説明した。活字の説明をすることがあろうとは思わなかった。
講演で前に町田康さんがCDの「悲しい色やねん」をかけたことがあった。
(歴史は繰り返す.といいながら北村さんは小林旭の「惜別の歌」のCDをかけた)
惜別の歌の作詞は文語であり、文語の言葉には訴える力があると思うがそれを小林旭が歌うのは不思議な感じがしたものだった。
その歌詞はこうだ。
1・遠き別れに耐えかねて この高楼にのぼるかな
悲しむなかれ我が友よ 旅の衣をととのえよ
2・別れといえば昔より この人の世の常なるを
流るる水を眺むれば 夢はずかしき涙かな
3・君がさやけき目の色も 君紅の唇も
君がみどりの黒髪も またいつか見んこの別れ」
1では友になってして、それは男性、しかも美少年かと思っていると、3では紅の唇とかみどりの黒髪とかが出てきて女性だったのかと思う。
この作詞は島崎藤村とあるので若菜集を見るとそのなかに「高楼」という詩があった。
こんなふうに読書が枝葉を出して繋がっていくのかおもしろい。そこから派生して、いろいろなことが繋がって「はてな」がとけていくのがおもしろい。「高楼」はこんな詩である。
わかれゆくひとををしむとこよひより
とほきゆめちにわれやまとはん
妹
とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ たびのころもを とゝのへよ
姉
わかれといへば むかしより このひとのよの つねなるを
ながるゝみづを ながむれば ゆめはづかしき なみだかな
妹
したへるひとの もとにゆく きみのうへこそ たのしけれ
ふゆやまこえて きみゆかば なにをひかりの わがみぞや
姉
あゝはなとりの いろにつけ ねにつけわれを おもへかし
けふわかれては いつかまた あひみるまでの いのちかも
妹
きみがさやけき めのいろも きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも またいつかみん このわかれ
姉
なれがやさしき なぐさめも なれがたのしき うたごゑも
なれがこゝろの ことのねも またいつきかん このわかれ
妹
きみのゆくべき やまかはは おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに きみにおくらん はなもがな
姉
そでにおほへる うるはしき ながかほばせを あげよかし
ながくれなゐの かほばせに ながるゝなみだ われはぬぐはん
これはおねえさんが嫁いでいく、その別れを姉妹がしのんでいる詩だ。ではなぜそれが「惜別の歌」になったのか。なぜ小林旭なのか。そんな疑問を仕事のときに口にすると、同席していたカメラマンの上司が作ったということがわかった。
そのひとは藤江英輔といい新潮社の編集者だった。藤江さんは中央大学卒のひとで、「惜別の歌」は学生歌として歌い継がれているという。
詩を少し変えて、「惜別の歌」という題をつけたことに関して、藤村関係の方からクレームはこないのかと思ってしまう。
かつて「詩歌のまちぶせ」というエッセイを雑誌に連載していた。その単行本『続・詩歌の待ち伏せ』が出るにあたり、「どなたかお会いになりたい方はいませんか」と言ってもらったので、藤江さんに合わせてもらった。
藤江さんは1926年生まれで、中央大学を卒業し、
召集され東京板橋の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)というところに徴用された。造兵廠に勤めていると、下宿などしている学生の住所がわからないので、召集令状が直接工場に届いた。
藤江さんはその赤紙を本人に渡す係りだった。その赤紙に切実な別れが迫っていた。自然に何人かで集まってこの歌を歌うようになったのが最初だった。
藤江さんは春陽堂の明治大正文学全集で藤村の詩集編を読み、その詩に色をつけた言葉を書いた。
作曲したのはちょうど六十年前の戦争が終わる直前、昭和二十年の一月頃だった。
巖本真理というバイオリニストと藤江さんは小学校が同期で学芸会というと彼女がバイオリンを弾くのに魅了されて、藤江さんもバイオリンを始め音符を読むようになり作曲できた。
当時藤江さんが勤務していた軍需工場では日勤・夜勤が一週間交替であって、夜勤は夜八時から朝の六時までだった。
大雪が降り、早朝の帰りに雪の中を歩きながら転んだときに「悲しむなかれ我が友よ」のメロディーが浮かび、そこから前後のメロディーが出てきた。
藤江さんが口づさむと、口から口へと伝わっていった。工場で一緒に働いていた他校の中学生・女学生もみんなこの歌を覚えてくれた。歌は全国に広がった
藤村の「高楼」は、嫁に行く姉を妹が送る別れの詩だったのが、「惜別の歌」は、戦争へ行く友との別れになった。そして中央大学の学生歌として昭和二十五年頃レコード化されている。
歌詞は4番まであり、それで起承転結になるのだが、レコード会社の都合で3番までになってしまった。
4・君の行くべき やまかわは 落つる涙に 見えわかず
袖のしぐれの 冬の日に 君に贈らん 花もがな
4番が言いたくて作った。十年ぐらい前に長野県小諸市の有志が、懐古園の入口付近に、歌碑を建ててくれた。歌碑には4番まである。
クレームの件に関しては、幸い藤江さんが勤めていた新潮社が「島崎藤村全集」を刊行中だった。
藤村の三男で著作権者の一人の蓊助さんとは一緒に酒を飲む仲だった。題を変えたことと、「あね」を「友」にすることは、そのときに了承してもらった。
現代代表的歌人の小池光の滴滴集のなかにこういう歌がある。
「名もしらぬとほきしまより流れつきテレヴィジョンあまた秋の浜辺に」
頭の部分、イメージの冒険があっておもしろい。
藤村の「やしの実」のが下敷きになっているが
それを知らないひとが多くなってきている。元を踏まえた作品ではその元をわかっているのと、後から説明されるのはやっぱりちがう。
前の世代が常識的に理解していたことが加速度的になくなってきている。中央大学の学生歌から一般の歌になったことを今の中大生やOBでも知らない人が多い。「なぜ俺たちは卒業式に小林旭の歌を歌うんだ」という疑問も出てくる。
歌はいろいろな力を持っている。藤江さんはその藤村に詩を悲愁一色の時代にからめ、そういう時代が二度とこないようにという願いがこめて「惜別の歌」を作ったのだった。
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北村さんの講演を聞いていた荒川洋治さんは「北村さんは話がうまい」と褒めた。ふたりは大学が同じである。
北村さんの話のリズムはおおらかでいい。詩人の話を聞いていて鼻が高かった。日陰者の晴れ舞台である。
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️