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先生たち 2 まりセンセイ

センセイから、京都文化博物館での書作展の案内状が来た。精力的な活動に感心する。

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高校3年の担任まりセンセイのなかのメトロノームは、とてもゆっくり振れているような気がしていた。アダージョのひと。

ねむたげな眸はやわらかに事物を捕らえ、こころはあたたかに反応する。その鷹揚な気配が生徒を安心させた。

高校の校門の門柱に、造反有理なんてペンキで落書きされていた時代のすぐあとに、そこをくぐったあたしたちの世代は、そんな紛争の欠片など微塵も持たない三無主義の集団だった。

声高に相手を攻撃することなく、必死の形相になることもなく、穏便にラクチンに日々が送れればそれでよかった。

やらねばならぬことはわかっていた。いずれそういう戦いの場に出て行くのだとも知っていた。そういう予感を抱きながらもそこからは遠くにいたかった。一日は倦怠感とともに過ぎていった。

だから家畜の放牧のような、まりセンセイのクラス運営がありがたかった。だからこそ、受験前の文化祭で「かぐやひめ」なんてパロディードタバタ劇にみんなが夢中になったりしたのかもしれない。そこには緩やかな連帯があった。

卒業後30数年がたって同窓会でお会いしたまりセンセイが意外にお若くて、逆算すると、担任をされていたころはすごく若かったんだなと思い至り、驚いた。結婚されて間もなかったのかもしれない。そんなころにあんなに落ち着いておられたのかと感心する。

宇治市が主宰する紫式部賞の市民文化賞を取られた詩集「撫順」には、大陸から引き上げてくるときのことが描かれていた。そういう厳しい状況を潜り抜けてこられた体験がその落ち着きをかもし出していたのかもしれない。

また、日比野五鳳というかたを書の師に持ち、書道に励んでこられた。幼い日にその門を叩いた日からの交流を描いた本も出されている。師と交わした言葉を鮮明に再生させたその文章のやわからさがまさにまりセンセイだと思う。

あたしは取るに足らない生徒だっただろうな。クラスにはセンセイの家を訪ねた子もいたし、センセイのお子さんになつかれた子もいたという。そんな交流があったこともしらなかった。

あたしにとってのまりセンセイは、透明な空気のかたまりの向こうで、いつもゆったり微笑んでいるひとだった。

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ふりかえってみると、センセイのひととなりをあまり知らないことに気づく。あたしの興味の矢印が他に向いていたのだろうと思う。そしてセンセイの矢印もそうだったのかもしれない。

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書作展に行ってきた。

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万理先生の字、いいな。

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懐かしい顔。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️