見出し画像

そんな日のアーカイブ 荒川洋治講演 ことばと思い


(荒川さんの肩書きは詩人ではなく「現代詩作家」である)

昨年9月「怒涛の読書」をした。いっぱい本を読んだ。寝食を忘れて読んだ。もうどんな長いもんでも持ってこいの気分だった。

藤村の「夜明け前」も二週間くらいで読んだ。若杉慧の「エデンの海」はつまらなかった。夏目漱石もいっぱい読んだ。一カ月かかって「明暗」以外をほとんど読んだ。トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」も読んだ。

「忘れえぬ人々」という小説がある。明治31年の国木田独歩の作品である。旅行にいって会ったひとのなかにどうしても忘れられないひとがいる、という小説だ。

川崎から八王子へ行く途中の亀屋旅館で、隣りの部屋の秋山という画家と主人公大津は意気投合した。そして大津は自分にはこれまで会ったひとのなかに忘れえぬひとがいると告げる。

阿蘇山の麓で車を引きながらやってくる若い男がひとりでつぶやく馬子唄が忘れられない。その若者が忘れえぬひとである、と。

松山の三津浜という港町の市場の喧噪からはなれた店先に立って琵琶を奏でて謡う僧も忘れられない。また瀬戸内海を渡る船から見た小島で何かを拾っているひとのことも忘れられない。

顔も知らずあいまいで何のかかわりもないのに時々思い出すのだという大津はその人たちのことをノートにつけている。

忘れえぬ思い出のひとは3人だけで、ただ大津が思うだけである。人間が生きていて、そして死んでいく。そのひとりひとりの人生のようなものを感じ、みんないとおしく感じられると大津は話す。

二年後大津がノートを開く。そこに忘れえぬひととして書かれていたのは、亀屋旅館の主人だった。秋山ではなかった。

作品はしっかり読む。漠然と読んでいては感動がない。

(荒川氏はうまく話すことを研究中なのだが、話はだんだん長くなっていくので、途中でぱっと切ることにしたのだという。それはなかなか効果的なのだ、と言って話が変わる)

伊藤左千夫作の「野菊の墓」は明治39年の作品で「忘れえぬ人々」の8年後の作品だ。政夫は、 2つ年上のいことの民子に恋心を抱く。しかし、 二人は引き裂かれ、 民子は無理矢理ほかの男と結婚させられる。それは不幸な結婚だった。子供が生まれるが産後の肥立ちが悪くて民子は死んでしまう。

それを知って政夫は嘆き悲しむのだけれど、それが大仰で、そんなに泣くくらいなら、そうなる前になんとかしろといいたくなるような男のずるさがある。

民子が死ぬとそれまで冷たくつらく当たっていたひとたちがみなものすごく泣く。文庫でいうと48から61ページまで(別の文庫では52~66ページまで)いろんなひとがぞろぞろ出てきてオンオン泣く。人間が亡くなると誰に愛されていたのかがわかる。しかしそれは今更、という感じだ。なぜもっと早く感じなかったのか。

この本の前半はほとんどひとがものを語らない。しかし後半はみんな圧倒されるくらいしゃべりまくる。死んだことによって自分を思ってくれるひとがこれだけいたらしあわせだ。

何か起こらないとその人の大切さがわからない。
本質がやっとそこでわかるという人間の情けなさ。しかしそれもこれだけ涙をながしているのだから読者としても許してやりたくなる。

この「野菊の墓」はダイソーで100円で買った。芥川も太宰も藤村も朔太郎も100円。月に吠えるも100円。

作品ごとに「スピーチや手紙に使ってみよう」というコラムが載っている太宰の「桜桃」は「保護者のあいさつ 保護者懇談会で…」「ヴィヨンの妻」は「本人のあいさつ 離婚を報告する集まりで…」「富岳百景」は「幹事のあいさつ 商店街の慰安旅行で…」に引用され、その例文が載っている。(荒川さんはそれにも感心してしまい、ふたつ読み上げたのだった)

人間が死ぬときにあとの世界のひとに詩を残す。草野心平の蛙の詩である。

ばあさんかえる みんみのあいさつ

ちきゅうさま ながいこと おせわさまでした
さようならでございます
ありがとうございました
さようなら

世界と別れるとき、自分につぶやくように「さようなら」という。

「オ母サン」

トテモキレイナ花
イツパイデス。
イイニホヒ。イツパイ。
オモイクラヒ。
オ母サン。
ボク。
カヘリマセン。
ヌマノ水口ノ。
アスコノオモダカノネモトカラ。
ボク。トンダラ。
ヘビノ眼ヒカツタ。
ボクソレカラ。
忘レチヤツタ。
オ母サン。
サヨナラ。
大キナ青イ花モエテイマス

この詩には残された母へのひとつの愛が披瀝されている。

「オ母サン。 ボク。 カヘリマセン」

母を悲しませないための言葉、残された母の気持ちが和らぐように。

「大キナ青イ花モエテイマス」


僕はここにとどまる。大丈夫こっちはこっちで生きていく、と。名詩中の名詩である。死でわかたれる愛の表現である。

文学はちがった目線だ。葉山よしき「セメント樽のなかの手紙」という短編小説がある。原稿用紙にして8枚半の短いものだ。これは労働者同士の愛を感じさせる作品だ。

セメントの袋の底に手紙があった。「わたしの恋人はセメントになってしまいました」で始まる手紙だ。

恋人があやまってミキサーのなかに入って死んでしまった次の日に書かれた手紙で、おなじミキサーに入れられたのだった。続けて「あなたは労働者ですか? もしそうならおたずねします。恋人がつまったセメントは何に使われますか?わたしはそれが知りとうございます」とある。

「あなたは労働者ですか?」と聞くのは働いているもの強いむすびつきがあれば、それだけで自分の思いが届くという期待だ。

日本人の50パーセントの人が月に一冊も本を読まない。いまや読書は特殊な能力と化しつつある。世界ではタイが一番読んでいて、日本は読まない率の1位である。本を読まない国がどのようになっていくかを世界に示していくのだ。

ホーソンの短編集に「大いなる岩の顔」(1851)という作品がある。人面に似た大きな岩の塊がある岩肌を小さいときから見て育った少年がいた。

山の顔自体が教育で、いろいろな表情がでるので、それを見ると、心がシャンとしたり潤ったりした。この村ではこの岩を眺めて育ったひとはいつかあの岩にそっくりになって帰ってくるという伝説があった。帰ってきた何人ものひとがその岩の顔にそっくりに見えたが、近寄ってみると品がなかった。

少年は説教師になった。村人はその説教師が山の顔にそっくりだと気づいた。少年の顔がそうなっていた。詩人が登場して説教師に、大いなる岩の顔のひとではないかと言うが、少年はとんでもない、私ではないといい、そっくりなひとを心のなかで待ち続けるのだった。

人間は一生に限られた人にしか会えない。だから本を読むしかない。本を読むことはあした役にはたたないけれど、一生の間にぼんやり頭に浮かべて生きていると、やがて血となり肉となり、物の見方や考え方を整えたり潤したりする。

文学は実学である。一生を潤すなんともいえないものである。本を読み想像力を育てる。本を読まなくなると短気で非人間的な事件など多くおこり、人間性が壊れてきている。
 
田村泰次郎の戦争物はいい。戦争中に本が中国大陸でしてきたことや、慰安婦問題を正面から書いている。主題がはっきりしていて、官能的だ。読む人の官能にぶち当てている。戦争に向かいあい自分の罪深さを感じて書いた「いなご」「失われた男」がいい。

「失われた男」では中国大陸でいっぱい悪いことをしてきたふたりの男が出てくる。戦争が終わってふたりに行き来はなかったが、相手が死ぬというとき、見届けに行く。

自分の悪行をその男だけが知っているのだ。その男が死ねば誰にもしられない。しかし、死んでくれるな、という気持ちになってしまう。自分が失われてしまうという気持ちになったのだった。

田村泰次郎の本は差別的な用語が多かったりして
なかなか読めなくなっていたが、日本図書センターが全集をだした。

本はひとびとが話題にするような定番でなく、自分で見つけてくるものだ。読書ナビなどを頼って自分の目で探さなくなっている。

宮沢賢治などは学者が賢治という詩人をもてあそんでいる。自分の目とは離れたところで簡単に神格化してうまいことやっている。はなはだ偽善的だ。自分の生活はどうなんだ、と問いたい。


大正3年、夏目漱石の「こころ」が新聞に連載された。連載が始まった3日目の4月23日のこと、兵庫県加古川の小学6年生が手紙を出した。11歳の松尾かんいち君だ。

「先生の遺書」という言葉に小学生は胸騒ぎがした。「先生は死んでしまうのか。先生はどんなひとか」と問うてきた。いてもたってもいられなくて小学生が手紙を出した。この名作に対する最初の反応だった。

漱石は「あの、『こころ』の先生は死にました。覚えていても仕方がありません。子供にとって役にたつものではありません。ところで誰に住所を聞きましたか?」と答えている。個人情報は大切にしなければと漱石先生は先取りしている。

松尾くんはものすごく漱石のものを読んでいた。
当時9ポイントの活字が8.75ポイントと小さくなっていたがルビをたよりに松尾くんは読んだ。明石での漱石の講演にいきたかったというほどの小学生である。その後松尾くんは師範学校にいったが、20歳で病死した。大正の一人の青年である。

漱石の作品をたくさん読んだこの小学生は短い生涯を終わってしまったがその基本的は姿勢は自分の体験できないを描いた文章、自分のかわりに人間的充実をぐんぐん書いてくれているものを読んで勉強しようというものだった。その姿勢に感動する。

ただ生きているだけではダメだ。人間の書いた言葉を真剣に読み、そしてまっすぐな目で生きる。
文学はそういう土台なのだ。この少年のこころに響きあう、言葉にたいする愛情をもてているかを考える。

公園のベンチがそこにあることや、雑誌の割り付け方や式の式次第なんてものは、いつかどこかで誰かがその土台を考えだしたものだ。

幸田文さんの「包む」という短編がある。店を出された職人がうらみにおもっていたが、その店では自分が教えて包み方で今も包んでいた。それで恨みが消えたという話だ。その職人が包み方の土台を作ったのだ。

いったいあなたは土台をいくつ作っているのか。文学は土台である。言葉が作り出すものへの畏敬の念は身近に感じる愛である。

ものごとを生み出すひとはその名は消えても、その土台を残していける。そういう働きを持つ文学を大切にしていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!

bunbukuro(ぶんぶくろ)
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️