ざつぼくりん 12「爪の形Ⅱ」
結婚して五年目の五月、新生児室の箱のように小さなベッドに未来があった。ようやく授かった三六〇〇グラムの大きな赤ちゃん。生まれたての純一、生まれたてのとうさんとかあさん。
孝蔵はまだ首が据わらない純一を風呂に入れた。大きな手のひらに純一の頭がすっぽりと納まった。純一は志津に似た黒目がちの目でじっと孝蔵の顔を見ていた。
「おーい、あがるぞー」
と呼ばれて志津がバスタオルで受け取ると、孝蔵は放心したように座り込んだ。
「おっことしちゃなんねえって妙に力が入ってな、気がつくと息をつめてんだよ。笑っちまうな」と苦笑した。壊れ物のような小さな命がいとおしくも、おそろしくもあった。
アルバムをめくるごとに志津似の幼い丸顔がだんだん尖がっていって、孝蔵に似ていく。
相似形のように体つきのふたりがよく似た寝相で並んで昼寝をしていたのは何歳のころだったろうか。
声変わりをしてからは電話の応対でよく間違われた。孝蔵の仲間にいきなり「孝ちゃん、明日は暇かい?」と聞かれて戸惑っていた。
ソファの横の電話が鳴る。志津を制して孝蔵が出る。
「おう、おれだよ。……ああ、降ってきやがったな。おお、そうかい、そりゃあよかったな。ひと安心だな、おめえも。……ああ、ああ、まあ、こっちはふたりでぼちぼちやってるさ。それはそうと、トクはどうした? ……やっぱりだめかい? ……かわいそうにな」
昔の友達かららしい。話の途中で何度も軽く咳き込む。そばで志津が背中を撫でる。
「そいじゃあ、俺もまた邪魔するからさ、……こっちにも顔だしてくれよな」
電話を切ってから孝蔵がゆっくり向き直って言う。
「おい、篠崎のかあちゃん、退院したってよ」
「あら、よかった」
「見舞いの礼、言ってたぜ」
「あ、そう。その電話だったのね」
「しかし、乳がんてのは再発が怖えらしいな」
「クリーニング屋のおばさんもそれでダメだったって」
「胃がんのトクももういけねえらしい。まだ若いのにな」
「まあ、そうなの? 奥さんもたいへんねえ」
「ああ。また声かけてやってくれ」
そうね、と答えながらプリントを片付け、志津は台所に立った。するといつものように、今晩の飯はなんだい、と孝蔵が聞く。藍染のエプロンをしながら志津が台所から大きな声で答える。
「今晩の献立はねー、かつおのたたきとそら豆の白和え」
「かつおか、いいな、早くしてくれよ。今日はドームで巨人戦があるしな。」
急に元気になったような機嫌のいい声が返ってきた。志津は雨音を聞きながら湯呑みを洗う。蒸し暑さが少しひいてきた。
純一が死んだのは夏休みに入ったばかりの朝から暑い日だった。
「大学へ行って建築の勉強がしたい」と純一は言った。
そのころには小さな建築会社に就職していた孝蔵は、大学の学資捻出ために単身、手当てのつく地方の現場に行き、志津は頼まれ物の仕立てを始めた。純一も新聞配達のアルバイトをしていた。
いつもより帰りが遅いと案じていると電話がかかってきた。
「おたくの息子さんが交通事故に遭われました」
血が引く思いで志津は独りタクシーに飛び乗った。ポケットに保険証と財布を突っ込んでエプロンのまま出てきた。足元はつっかけだった。
新聞配達中の原付バイクに、居眠り運転の長距離トラックが突っ込んだ。即死だったと言われた。
自分がどうなったかもわからないまま純一は死んでいったのだ、と病院の静まり返った霊安室で志津は思った。目の前で線香の煙は揺らぎもせずまっすぐ立ち上っていき、ふっと消える。
「純一、早く起きなさい、遅れるわよ。あんたが遅れたら朝刊読めない人がいるのよ」
「わかってるよ。かあさんは寝てていいから」
純一と最後に交わしたのはそんな言葉だった。眠そうな声だった。
「純一、早く起きなさい」。
そこからもう一度一日を始めたい。
高崎の現場から作業着のまま飛んで帰ってきた孝蔵は、ドアを開けるなりかっと大きく目を見開き「バカヤロウ」と咆哮した。
その背中がこんなことがあってたまるかと叫んでいた。孝蔵はもう動かない純一の遺体にすがり、幾度も息子の名を呼び、身をよじった。泥のついた作業靴が志津の目には痛かった。
通夜も葬儀もはっきりした記憶がない。喪服を着てただ頭を下げた。訪れるどのひとも嗚咽をもらし、涙を拭いていた。詰襟の学生服やセーラー服を着た純一のクラスメートの焼香が続いた。あの女生徒のなかに純一がこがれた娘はいたのだろうか。
孝蔵の友人やその妻たちが細かく心配りをし、快く立ち働いてくれた。そうして彼らもまた目を赤くしていた。
まだ歩けないころから、純一はそのひとたちの神輿ダコができた肩に肩車されて祭りに出かけていった。
純ちゃん、大きくなったらいっしょに神輿担ごうな。
子供のいない鳶職のトクさんと交わした約束を、恩返しのようにたった一度だけ果たして純一はいなくなった。