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そんな日のアーカイブ 13 2003年の作家 藤原伊織

前日の藤田宣永さんの講演時、藤原伊織さんが会場のよみうりホールに来ておられたのだそうだ。それを聞いてなんとまあ、用意周到なお方だろうと驚いたのだが、藤原さんがほんの少し前まで広告代理店の部長さんをされていた、と知ればなるほどこれがマーケティングというものか、と胸落ちしたりする。

『テロリストのパラソル』という小説で、史上初めて江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞された藤原さんは逢坂剛さんと同じく広告代理店にお勤めされ、かたわら小説を書いておられた。

それが藤原さんの何番目の志望だったのかはわからないが、東京大学仏文科を卒業し、逢坂さんのおられた博報堂の何倍かのシェアを占める業界1位の電通に就職された。ほう!である。

しかし、大阪の今里で生まれて天王寺区にある高津高校を出てから、サラリーマンになるまでには7年の月日が流れていた。その7年がなみなみならぬ時間であり、藤原さんが小説を書くみなもとであるようにも思われる。

高津高校というのは何にも縛られない自由な校風で環境的にも雑駁な匂いがしたという。制服も髪型も自由で「体育祭の行進がファシズムだと暴れ、同級生が喫煙で停学になるとバリケードで授業をボイコット――」というふうだった。藤原さんもすぐ染まった。遅刻はするし、タバコは吸うし、ビリヤードには凝るし・・・。

とはいえ、そんな藤原さんも美術部に入部し、具象と抽象の中間あたりの絵を描いていたそうだ。休みの日にも登校し汗だくでベニヤ板でキャンバスを作ったり、部室で徹夜して、イーゼルに向かったりした。そしてニュージーランドをテーマにしたコンクールで特賞を取った。描いたのは、黒と緑の岬の風景だったという。

しかし、二年の夏、「自分の限界が見えて」美術部をやめ、以後小説の世界にめり込む。「太宰治、吉行淳之介。それまで手に取ることのなかった古今東西の小説。通学の市電の中でも、家に帰っても、読みふけった」という。
 
その後藤原さんは上京して浪人して、ジャズ喫茶で勉強して、東京大学へ入学する。そこで大学闘争の渦にまきこまれた。安田講堂の立てこもり事件の時、藤原さんは別セクトの襲撃を受けて駒場に閉じ込められていた。事件のことはラジオで漏れ聞いた。

しかし、その大学闘争で、思いは高揚したが、実際はなにをしていいのかわからなかった。40分歩けば新宿というところに住んでいた。いくところは新宿しかなかった。長髪Gパンサンダルに汚れたTシャツ姿のフーテンだった。

睡眠薬中毒だった。当時睡眠薬は合法な売薬だった。1錠100円だった。ノモノレスト、ハルモレストなどは憂鬱な時に飲むとハイになった。致死量が40錠なのだか20錠飲んでいた。やがてそれが手にはいらなくなった。

立川の薬局のみが売っていたハイミナールを古本を売った金で買っていた。その立川の薬局も手入れを受けて3ヶ月のちに売らなくなった。

それから空白の時代にはいる。フーテン生活だった。新宿の風月堂やピティを定点にしてそこでジャズを聞いていた。そこが空白の重心だった。3年間そういう生活を送った。

ある時、サラリーマンになった友人が3000円の寺山修司詩集を買ったのを見て、定期収入のある生活に憧れ、自分もそうなりたいと思った。そして電通に就職する。

大阪支社に6年いて、その後東京新宿の生活が20年続いた。厚生年金会館の地下のバーに毎日通った。広告代理店の営業という忙しい仕事のなか。酒を飲み、賭け麻雀をし、小説を書いた。

29歳のとき小説を書き角川野性時代文学賞に応募した。その賞は文芸に近いものでどんなものでもよいというコンセプトだった。自伝的小説で薬のことを書いた。評価の選評が聞きたかった。

吉行淳之介氏の「有力な書き手を獲得しかかっている」という野性時代の選評が支えだった。

いろんな賞に10回応募して5回受賞した。

小説現代の選考者である池波正太郎氏は藤原さんの作品に対して「問題点は古い固い狭小につきる」と言った。そして、小説の舞台に新宿を選ぶということにたいして、新宿にいた人々の群像の行動パターンは似ていて、小説になりやすい舞台を選ぶことが安直だ、と評された。

それには藤原さんも納得した。そして、地名を入れない小説を書き、すばる新人賞を獲ったのだった。

細身の体をちょっと前かがみにして、少々長めの髪をかきあげて、大阪の生まれだとは微塵も感じさせない言葉で藤原さんはこう言った。

「表現のプロとアマの差は職人と素人のつくるものの差と同じです。文学というのは達人の言葉であると思います。文芸という言葉の方が身近で馴染みやすくて好きです。それは職人芸の世界です。職人の存在の奥深さがあります。

高校2年生から純文学を読み始めましたがエンターテイメント、文芸の世界にも純文学と同じような職人芸があると思います。種類としての差はあっても、価値の高低、優劣はないです。その作品が優れているか、いないか、のみです。

ハードボイルドの世界を書いたレイモンド・チャンドラーはある時『この世界にとどまっていたら才能を浪費する。文学を書きなさい』と言われて『わたしの書いているものが文学だ』と答えたそうです

自分が書くものに自信をもって打ち込んでいる場所が、あるべき居場所だという意識がありました。

時間ができてまた小説を書きはじめた時、ミステリーを書こうと思い新宿をあえて舞台にしようと思いました。

新宿を舞台にしたミステリーや犯罪小説は書き易く、安直であるといわれますサントリーミステリーなどでは新宿が出てくると審査員は一点減点するらしいです。

でも、一番手垢にまみれたものをちょっとひっくりかえすと、あたらしいものがでてくるのではないか、というスケベ心がありました。ちょっとかわったスパイスをきかせることで変化するのではないか、と。」

街に生きるのは体力と関係する。体力、感受性にふさわしい街がある。薬から酒へのめりこみ新宿西口でチュウハイを飲む。そこで喧嘩になる。肉体だけが勝負、それがルールであり仁義であった。それが若き日の藤原さんの生きた街、古きよき新宿だった。

激動から空白へ、という時代の空気、街の匂いを反映して藤原さんの物語世界ができている。「私と新宿」というテーマだった。

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Wikipediaより

藤原 伊織(ふじわら いおり)、1948年2月17日 - 2007年5月17日)は、日本の男性作家。大阪府大阪市出身[1]本名は藤原 利一(ふじわら としかず)。
大阪府立高津高等学校、東京大学文学部フランス文学科卒業。電通に勤務する。1977年、「踊りつかれて」で野性時代新人文学賞佳作を受賞(藤原利一名義)。
1985年、『ダックスフントのワープ』で第9回すばる文学賞受賞する。その後、原稿依頼を断っているうちに注文が来なくなり、発表が途絶える。1995年、ギャンブルでかさんだ借金の返済のため、賞金1000万円を目当てに『テロリストのパラソル』を江戸川乱歩賞に応募し、受賞する[2]。翌年、同作で直木三十五賞も受賞した。それまでに乱歩賞受賞作が直木賞の候補になったことや、乱歩賞受賞作家が直木賞を受賞した例はあったが、同一の作品で二賞を受賞したのは史上初であった。
2007年5月17日、食道癌のため東京都品川区の病院で死去。2005年には癌に侵されていることを公表していた。享年59。

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2003年7/28〜8/2まで、東京・有楽町よみうりホールで開かれた日本近代文学館主催の公開講座「第40回夏の文学教室」に参加し「『東京』をめぐる物語」というテーマで、18人の名高い講師の語りを聞きました。

関礼子・古井由吉・高橋源一郎
佐藤忠男・久世光彦・逢坂剛
半藤一利・今橋映子・島田雅彦
長部日出男・ねじめ正一・伊集院静
浅田次郎・堀江敏幸・藤田宣永
藤原伊織・川本三郎・荒川洋治

という豪華キャスト!であります。

そして17年が経つともはや鬼籍に入られたかたもおられ、懐かしさと寂しさが交錯します。

その会場での記憶をあたしなりのアーカイブとして残しておきます。

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bunbukuro(ぶんぶくろ)
読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️