宗教観

窓の外側で歩いていると思った虫さんは内側を歩いていて、窓についた猫の鼻水を拭き拭きしていた私は、誤って、その虫さんを殺してしまった。
きっと悪いことが起こる。

そしてふと思った。
掃除をしていれば、たくさんの小さな命を殺めているのではないかと。
ダニとか。
もっと小さなものも犠牲になっているかもしれない。

ならば、殺生は良くないとする宗教の人たちは掃除すらできなくなるじゃないか。

ならば、人は殺さずして生活することは不可能なのか。

ならば、殺しを経験するものを許せない神様は、ぼくらを許さないのか。

考えはどんどん進んでいくな。

夢小説で牛の出産を書きたくて、調べたら、肉を食べるのがさらに控えたくなった。
牛乳すら控えたくなってきた。
卵についても調べたら、きっと卵も食べられなくなるだろう。
どうしたらいい。
知らん。
こうしてベジタリアンだのヴィーガンだのピタゴリアンだのブリザリアンだのが出てくるのか。

そしてゴリラを尊敬するようになってきた。
草食だというのに、筋トレもしていないだろうに、あれだけの身体を持っている。
ゴリラをバカにするべからず。
ゴリラゴリラ。大事なことなので2回言いました。
正式名称がゴリラゴリラならば、大事なことを2回言う場合、ゴリラゴリラ、ゴリラゴリラとなるな。
訂正してお詫びしなければならない。
さかなさかなさかな、さかなーをたべーるとー。
ゴリラが霊長類であるならば、人もゴリラのマネができないだろうか。
ゴリラパワーがあれば、害獣だって、ウホホしたら宜しい。
何故、人は道具に頼るのか。
何故、人は何かに頼るのか。

宗教に戻る。
聖書とは、道徳の本のように、美しい事柄を読んで見せるというのが役割と思っていた。
聖書とは、サスペンスもののようだ。古畑でした。
ワルを見せ、罰を見せ、それ以外が救われると示す。です?
浅く読んだ者にはそう見える。
主はいつぞやに肉を選び、兄弟間で殺しを行わせた。
そこで人は学ぶべきだ。
あやまちとは、須く誰しもに起こりうる。
未来に生きる私たちが、そのあやまちをあやまちと認識できれば、避けることで、良い行いが何たるかを見極めることができる。

ピクニックを楽しめる世こそ、平和な世界というものだろう。
ビッグマックでは基準にならない。

お金という呪いは、どうしたら解けるのだろうか。
カリブの海賊たちでは、導き出せなかった。箱にしまうだけだった。

宗教とは、いい加減な部分もあるぞと思う。
どこまでも世界は広がっているのに、あることをこれだと定義づけて、ルールにして、見逃していることに気付かない。
見えないことが強くて、見えることを傷つけている。
無知な人からすれば、それはバカらしいと印象を受けるんじゃなかろうか。
正義は十人十色。
正義こそ悪を生み出しているときもある。

人間はお勉強できるが故に、あやまちを犯す。
それに気付いた人はリセットを求める。
気付かなかった人たちから、悪者だとされる。
死があたかも救済のように思われる。
でもこの感覚を大事にしたいなら、それは違う。

人体はとてもとても複雑な構造をしているのに、自然に還ることができる。
どうして、粗大ゴミは還れないの。
可燃ゴミ以外もゴミと呼ばれる、この時代が終わると良いね。
綺麗な空気と綺麗な水があれば、人は美しくなれるんじゃなかろうか。
美容グッズで環境破壊をしていなければ良いのだが。

人の生活を便利にする道具や、人を殺める道具の開発はどんどん進んでいるらしい。

絶滅とは、本当に死滅なのか。
恐竜を絶滅と呼ばない私には、疑問符である。
それは置いておく。

もっと広い視野でものを見た教典ができて、人が地球に住んでいることを強く意識した新しい宗教が組まれるといいね。
オレは思うよ。
もっと何も区別が無い、フラットな見方ができれば良いのにって。
違うなら違うだけじゃん。怒ることないじゃん。

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