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現代アジアの華人たち vol.2 ◆ 黄銘彰 (ライター・『VERSE』執行主編) 前編

漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
今回登場するのは、台湾の人気カルチャー誌の執行主編をつとめる黄銘彰こうめいしょう(Huáng Míngzhāng/黃銘彰)さん。日本語のメディアに紹介されるのは初めてとのこと。前編と後編に分けて掲載します。
インタビューと構成は、北京大学大学院で中国近代文学を専攻した河内滴かわうちしずくさんです。

連載「現代アジアの華人たち」マガジン

プロフィール画像は本人提供

1993年生まれ、嘉義市出身。『The Big Issue Taiwan』を経て、フリーのライター・編集者として独立。同時にカルチャー誌『VERSE』の執行主編としても、編集・企画立案・執筆などに携わる。台湾大学法学部卒業。


「紙の雑誌はいつなくなるのでしょうか?」

 2020年8月、コロナ禍が世界を覆い尽くすなか、1年で最も暑い季節を迎えた台北で、一風変わったカルチャー誌の創刊号が世に問われた。

2-創刊號(圖/VERSE)

左から彭天恩、オードリー・タン、鄭宗龍
(写真提供:VERSE)

 『VERSE』と書かれたその雑誌を手に取る前にふと気づく。同じ内容の創刊号なのに、3種類の表紙が並んでいる。
 それぞれの表紙を飾るのは、台湾のコロナ禍の早期抑え込みに貢献したデジタル担当政務委員のオードリー・タン。台湾の土着性を踊りに取り込んだコンテンポラリー・ダンス・カンパニー「雲門舞集」クラウドゲート総芸術監督の鄭宗龍ていそうりゅう。台湾先住民の食文化と現代台湾料理の融合を図るレストラン「AKAME」メインシェフの彭天恩ほうてんおん
 創刊号に据えられた特集テーマは「WHY TAIWAN MATTERS ?(何故、台湾を取りあげるのか?)」だった。

『VERSE』の創刊に向けて、約1年前から準備を重ねていましたが、そのさなかでコロナ禍が発生しました。「こんな状況で紙の雑誌を創刊するのは無茶だよ」と言われましたが、こういうときだからこそ、「WHY TAIWAN MATTERS ?」をテーマに創刊に踏み切りました。
特に昨年、台湾はパンデミックの早期抑え込みに高い成果をあげたことで、世界から注目を集めました。成果を収められた理由として、透明性が確保された民主主義や、SARSの教訓からくる人々の感染症への高い意識などがあげられました。
しかし、わたしは、そうした現象も台湾が築いてきた精神的な文化と、深いところでは関係しているのではないか? とも思うのです。そうした台湾独自の文化について深く考えるには、コロナ禍はむしろ良い契機なのではないかと思いました。

 そう語るのは、創刊当時から執行主編として『VERSE』の編集・企画立案などに携わる黄銘彰。大学生の頃に世界各地の紙の雑誌にのめり込んで以来、今も紙の雑誌の可能性を追求する〝マガジン・フリーク〟だ。

わたしが生まれてからこれまでに、多くの人が「紙の雑誌はなくなり、インターネットがそれに取って代わるだろう」と口にするのを耳にしてきました。ところが、5年経っても、10年経っても、紙の雑誌はなくなってはいませんよね?
もちろん、雑誌を取りまく状況は厳しくはなっています。しかし、紙の雑誌にしか表現できないことがまだまだ多くあると、わたしは今も思うのです。

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(写真提供:VERSE)

 全ページフルカラーの誌面をめくっていくと、独特な文字の並びにまず視覚が刺激される。時に雑誌を縦に持ちかえないと、読み進められないページもある。
 写真もエッジのきいた実験的なものから、のどかなオールド台湾の風景まで、それぞれの個性が光る。柔らかいタッチのイラストも随所に使われていて、そうかと思えば、“Less is more”と言わんばかりの余白が際立つページが出てきたりもする。

 読みづらさを恐れない、静と動を巧みに使い分けたデザインに、何気なくページをめくっていた読者もどこかで思わず手を止めてしまうだろう。

たとえば、文字と写真の組み合わせ方は、雑誌のほうがウェブの記事よりも遥かに豊富で自由です。デザインを遊ばせられる空間も、雑誌にはたくさんあります。またシンプルに実物をコレクションしていく楽しみも外せません。
さらに “媒体”という側面に着目するなら、雑誌は一般的な書籍よりも手軽に読め、また無際限に拡張していくネットメディアよりも情報が厳選されています。ある意味では、”書籍”と“ネットメディア”の中間に、雑誌が位置していることにも、まだまだ多くの可能性があると思っています。

嘉義から台北へ

 黄が生まれ育ったのは、台湾中西部に位置する嘉義かぎ市。古くからの歴史を持つ嘉義は、阿里山脈のふもとに位置する、豊かな自然に恵まれた人口約27万人の小規模な街だ。
 最近だと、日本統治時代に夏の甲子園に参加した嘉義農林学校野球部を描いた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年公開)で、嘉義の名前を耳にした人もいるかもしれない。

 熾烈な学歴社会に加え、教育に携わっている母親の影響もあり、幼いころから真面目に学業に打ち込んできた黄。嘉義市でもっともレベルの高い国立嘉義高中(高校)に進学をし、大学受験の際には、文系試験で学内最高得点を獲得した。
 黄が利用した入試制度では、先に試験を受けて点数が判明してから、志望大学を決める。つまり、文系であれば、おそらく台湾のどの大学にも入学できると思われる結果だった。

わたしが生まれ育った地域は、まだ伝統的な価値観が根強く残っていて、教師や弁護士といった社会のためになって、かつ名声がともなう職業に就くのが理想とされていました。家族にも、それだけ良い成績をとれたのなら、台湾の最難関学部のひとつである、台湾大学法学部に進学してほしいという思いが強くありました。
わたし自身は法学にすごく興味があるわけではなかったのですが、そうしたチャンスがあるのなら一度入ってみようと、あまり深く考えることはなく進学を決めました。

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日本統治時代の1933年に竣工した嘉義駅舎
(撮影:黄銘彰)

 入学式を翌月に控えた2012年8月のある日の午後。台湾高速鉄道 THSR で台北駅に降り立った黄は、そこから地下鉄に乗り継いで、台湾大学へ向かっていた。キャリーケースを引きながら街頭を見渡してみると、人々の歩く速さに少し驚かされた。

 台北には何度か訪れたことはあるが、腰を据えて生活するのはこれが初めてだった。
 ここには、故宮博物院もあれば、世界中からファインアートの美術展も巡回してくる。独自のカラーを打ち出した独立書店やカフェなども活気づいている。さらに数年前から浸透し始めたFacebook上では、こうした情報が日々大量にシェアされていた。

 そんな刺激溢れる台北で始まった新生活。初めて学ぶ法学にも心新たに打ち込もうと思ったものの、どこか身が入らない。
 講義では、条文を丹念に読みこみ、さまざまな凡例を比較検討していく。法学という学問から学んだことも多くある一方、「外の世界では日々たくさんの面白いモノが生まれ続けているのに」という思いがどこかぬぐい切れなかった。

その頃、わたしも他の人と同様に、SNS上で文章を書いて発表していました。移り変わる世界を、自分の考えた言葉や映像でありのまま表現したかったのです。それは、法という既成の枠組みやまなざしを通して、世界を認識し解釈することとは、逆の作業でした。
そのなかで大きな転機だったのが、大学2年時の雑誌との出合いでした。台北の誠品書店では、世界のさまざまな雑誌を取り扱っていて、Facebookの情報などを頼りに片っ端からそれらを読み進めていきました。日本の『POPEYE』や『BRUTUS』なども読みましたよ。雑誌には、限られた紙幅に最大限のメッセージが込められていて、そこにはいきいきとした世界がありました。まさに、新世界との出合いでした。

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台北市内のカフェ
(撮影:黄銘彰)

 行きつけのカフェや書店なども次第に増えてきて、そこで多くの新しい出会いにも恵まれた。大学では消化しきれなかったエネルギーが、台北で出合った新しいカルチャーにどんどん注ぎこまれていった。
 そんな充実した日々を過ごしていたさなか、黄をはじめ当時の台湾の学生たちの価値観に大きな影響を与えた出来事が起きた。

2014年3月18日

 その夜、興奮と不安がないまぜになった台北の熱気を切り裂くように、黄はカメラを片手に立法院(国会議事堂に相当)周辺を駆けていた。
 抗議の垂れ幕が掲げられた立法院の入口近くでは、デモ隊と警察の間に張り詰めた空気が漂っていた。方々からは都市の騒音にまぎれてシュプレヒコールが絶えず飛び交う。
 そんな喧騒のなかでも、少人数のグループに分かれ、熱心に議論を交わす学生たちの姿が至るところに見られた。〝社会が大きく動こうとしている〟という強い予感を抱きながら、黄は次々とシャッターを切っていった。

 2014年3月18日、300人を超える台湾の学生が立法院へ突入したというニュースが世界を駆け巡った。きっかけは、当時の政権がわずかな審議時間で、「海峡両岸サービス貿易協定」の承認を急いだことだった。
 この協定が発効されると台湾の雇用の中心を担うサービス産業が大きなダメージを受けるのではないかという懸念と、審議が民主的なプロセスを経ていないのではないかという不満から、学生を中心とした多数の市民が抗議の声をあげた。日本では「ひまわり学生運動」(台湾では“318學運”)と呼ばれるこの運動は、こうして始まった。

わたしは立法院の外からこの学生運動に参加していていました。とても大規模な運動で、わたしたちの世代にとって、台湾と中国の経済関係だけでなく、自分たちと政府という体制との関係、さらには台湾の未来について再考を促される重要なきっかけになりました。

 300人を超える学生は、そのまま立法院を約3週間占拠。場外では連日のように数千にも及ぶ多くの学生による座り込みやデモが実施され、3月30日の総統府周辺での最大規模のデモには、50万人(主催者発表)の参加者が集まった。また占拠期間中には、毎日のように市民から学生に差し入れが届けられた。

 事態が収束に向けて動き出したのは4月6日のこと。この日、政権側が「チェック機能を強化する『両岸協議監督条例』が立法化されなければ、サービス協定の審議には入らない」と学生側に大きく歩み寄った。
 その翌日、学生側も「現段階における一定の成果をあげることができた」と応答。4月10日に立法院から撤去することを表明した。

 立法院をあとにする前、学生たちは自らの手で立法院内のバリケードや横断幕を片付け、占拠前と同じ状態になるように清掃した。撤退後にも立法院内に残った一部の学生たちが警察に排除されたものの、運動は大局的には平和裏に収束を迎えた。

それまでにも、大学で政治学に関する本は多く読みました。しかし、現実として市民が立ち上がり声をあげ、それが社会に巨大な影響を与えたことを経験し、大きな衝撃を覚えました。今、台湾の政治をはじめさまざまな分野で活躍する若いリーダーたちには、この運動を経験した人が多くいます。
とはいえ、わたし自身について言えば、「この運動を経験したから、今自分はこういったことをしている」と直接的に言い切れるものはありません。ただ、あの運動を経て、大学と社会の関係や、学生として社会にできることは何なのかといったことを、特に当時はより真剣に考えるようになりました。

 その後、台湾大学の学内は落ち着きを取り戻したが、黄はひとり思索を続けていた。そんな黄に、ある学生からFACEBOOKにメッセージが届き、相談したいことがあるとカフェに誘われた。「学生会のニュース部門で、学内誌の編集者を探しているんだ。もし興味があったら参加してみない?」
 当時、台湾大学学生会の会長を務めていた同じ嘉義出身の学生からだった。黄がFacebookで公開していた文章や写真をずっと目にしていて、声をかけたのだった。

 大学と社会をつなぐ良い機会になるかもしれない――そう思って二つ返事で引き受けた。
 黄の雑誌編集者としての歩みが、このとき始まった。


〈VERSE〉
公式ウェブ:https://www.verse.com.tw/
Instagramhttps://www.instagram.com/verse.tw/
PODCASThttps://podcasts.apple.com/tw/podcast/lexus-x-verse-my-way/id1565087227
https://podcasts.apple.com/us/podcast/v-voice/id1585117524

後編は10月28日公開予定

インタビュー・構成/河内滴(かわうちしずく)
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。

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