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30年前の今日

阪神淡路大震災30年に寄せて

今日、令和7年1月17日で阪神・淡路大震災から30年。私は神戸にいました。
当時建築を学ぶ大学三年生の私は、ワンルームマンションで一人暮らし。課題製作のために、深夜まで図面を描き、1時ごろベットに入ったものの、コーヒーの飲み過ぎか、眠れず、うとうとしては目を覚ます。そうこうしていた時の地震。地震という概念をこえた揺れだったので、何だかわからずも、揺れがおさまり、無我夢中で外へ出ようとしました。でも、腰が抜けて、怪談が降りられず。心落ち着かせる中で、ものすごい地震なのだと感じました。建物にいることが怖くなり、何とか階段を降りて、道路へ立った時、空から白い雪が、チラチラと降ってきた光景が目に焼きついています。
住まいも大学も、西区。
地震と同時に、水も電気もガスも止まったけれど、幸い、塀は倒れていても、半壊しているような建物は少なく、状況がつかめない。
そんな時、車のラジオをつけたご近所さんから、地震やわ、大きな地震らしい、との声。
明るくなるにつれて、事態の重大さが明らかになっていきました。大学はしばらく休講とのこと。途方に暮れながら、どうやって一日を過ごしていたのか。そして、夕方、長田火災で、山の向こうが、夕焼けのように赤く染まった風景が、未だ忘れられません。
大学はしばらく休講。私は、姫路に住む親友の家へたどり着き、福井の自宅へ避難しました。
大学再開の知らせが届き、神戸に戻ったのは、二週間後。
ちょうど鈴木研究室に入りたてだった私たちに、先生は、みんな無事でよかった、よく戻ってきてくれた、と。
西区だった大学は、電気、水は使えるようになっていました。それでも、まだ二週間。アルミサッシは歪んで閉まらない戸もありましたし、戻れない学生もたくさんいます。当時学科長だった文文先生は、そんな中で、大学を開くかどうか、当時の学長、吉武泰水先生を筆頭に皆で議論し、一刻も早く、大学を学生に開こう!、こんな時こそ、大学は開いていないと!、そう決断したのだ、と語られました。
今になって思うと、大変な中だったからこそ、大学再開という決断により、まだ整わないながらも、仲間に会える日常を取り戻して下さったことが、私たち学生には大きな救いだったと感じます。
先生は続けます。学生の多くは県外が多い。それぞれの実家に避難した。命からがら逃げ帰った。家族も喜んでくれた。しかし、帰ってみると、これでいいのか、大好きな神戸を見捨てたみたいで、こうしてのんびり過ごしていていいのか、そんな戸惑いを持った学生たちのためにも、開こう!と決めたのだ、と。
被災地の中で、大学という私たち学生の居場所ができた、私たちのボランティア拠点ができた、そんな感覚でした。
そして、授業といっても、集まったメンバーで、被害の多かった地域へ出かけていき、倒壊の様子をみて、構造を学ぶ。地域の人とふれ、今やるべきこと、出来ることを学ぶ。回ったとて、何の力にもなれない。でも、建物は命を預かっているものなのだ、ということを、まざまざと感じる日々でした。
また、大学では、建築学会や文化庁などの様々な調査の拠点となり、学生ながらにコピー取り、被災地へ出かけて行っての倒壊状況の悉皆調査や、色塗り作業、出来ることに取り組む中で、今、建築士として生きている私の土台をつくってくれた、そう感じます。
身の安全も大切。あの地震の中で生命を頂けた。だからこそ、人として、技術者として、大切なものを心に刻んでもらうことが、何より大切なのだ、それが、これからの復興を担う、これからの時代をつくる、この若人たちの「生きるチカラ」になるはずだ、そんな思いからだったとききました。
こうした先生方のご決断は、先生方の戦争体験によるものでした。戦後の、この国を何とかしたい、命拾いをした自分として、何としても、この国の役に立ちたい、そう思って、建築という分野を選んだ先生。
そんな先生方だったからこその、この決断でした。
震災から30年。震災に対して、体験を、情報を伝えていくことも大切。
でも、生命の大切さ、その意味、こうした心を伝えていくことも、次なる世代に託していくべきことなのかもしれない、そんなことを感じた30年目の朝です。

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