大切な人を感じて暮らす
雨戸開け 一日始まる 書生の暮らし (5)
新大塚のお宅は、明治につくられた鉄筋コンクリート造の書斎と、一部戦後に建て増した木造部分、埼玉から移築した座敷棟がくっついて、とてもレトロな建物。
でも、神戸では、住まいも学生とふれあえる場にしたいと、大学から歩いて数分の公団住宅の一室を借りておられました。そして軽井沢・追分の別荘は、「小屋」と呼ぶ、スキップフロアになった小さな平屋で、スウェーデンのトーリングハウスのプレファブリックハウス。
住居学の大家といわれた先生。でも、住まいのカタチには全然とらわれない。
建物の場所も、質も、造られ方も、雰囲気も、それぞれに違う。
そして、せっかく住まうのだから、と。
今、多くの人が住まいに求める「もっと便利に、もっと快適に、もっと素敵に」といった類のことには、ほとんどこだわらない。「目の前にあるものを大切に使う」ただそれだけ。これには、こだわっていたかも。
古いものだからよい、のでもなく、デザインがよいからでもない。家族が大切にしていたもの、奥様が選ばれたもの、あのとき旅先で出会って買ったもの、親しいあの方から贈って頂いたもの、そんな物たちが自然と日常に重なっていく、そんな暮らしを大切にしておられました。
いつも根っこにあるのは「人として、人間らしく生きること」。建物は所詮モノ。
それを使って、それぞれがどう暮らすか? 大げさ言うなら、どう生きるか?
人として、食事をつくり、食べる、仕事をする、音楽を聴く、昼寝をする、洗濯をし、お風呂に入り、排泄する、人を招き、お茶を飲んだり、食事をして楽しむ、庭を掃除する、草とりはせず、雑草も含めて花や木を愛でる。暑い時は暑いなりに、寒い時は寒いなりに、それも味わう、楽しむ。
制度とか、世の中の課題とか、理想とか、そうしたことも常に考えている。でも、先生の暮らしは、世の中のそうした情報にはしばられない。まず、日々の、目の前の、自分なりの、というところで向き合う。
そして、そんな一人ひとりの暮らしがみんなのまち、みんなの環境になっていく。
だから、環境問題に対しても、政府がこういっているから、新しい制度がこうだから、と流されない。私は、自然の風通しを大切にしたい。窓を大きく開いて、自然や人とつながって暮らしたい、だから、昔ながらの雨戸付きの木製窓を大切に、開け締めして暮らす。そのかわり、エアコンを使う頻度を少なく、でも、本当に暑いときは夜も使う。寒い時は分厚いセーターを着込む。生ゴミは捨てずに土に返す、たくさの庭木を大切にする。一方で、若い学生たちともっとつながりあいたいからと、70歳をすぎてもブログにチャレンジする。
自然や人、大切な人・モノとつながって生きるからこそ、自分も社会の中の一人だと感じられる。だからこそ、求めすぎず、無理がない。
「社会の流れや情報に自分の暮らしを合わせる」のではなくって、「目の前の人、モノ、自然、大切にしたい人・モノから社会をみつめる暮らし」。
住まいの性能・デザイン・モノを、自分なりに選び、カスタマイズさせて「自分の住まいをつくること」にこだわらず、家族が大切にしてきた目の前にある物たちの個性と向き合って、さてどんなふうに暮そうかと「自分の暮らしをつくること」を楽しんでおられた先生。
「モノ」派より「ヒト」派。建築計画という分野もそんな気がします。
だから、暮らすということに追われていない、自然体そのものの暮らし。
なので、建物は違うけど、どれも先生の家。どれも、先生らしい暮らしの雰囲気、暮らしの香りみたいなものが香っていたし、どこか、ほっとして、肩の力が抜ける場所だったのかも。「住まい」ってそういうものなのかも。
私も建築士。だから、ついつい、いろいろな大義名分を背負いそうになる。
社会問題や制度、立場を背負って生きようとしてしまう。でも、その前に人。
その前に、私。自然の一部。家族や、仲間や、知り合い、素敵な人たちに囲まれた社会の一人。
難しく考えず、大切な人や自然のことをいつも感じて、自然体で暮らしてみよう!答えなんて、ないのだから。