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文文先生の住環境 と 研究の視座

道掃きは ご近所づきあいの 要です (4)

考えさせられました。
下町って今でこそ、グルメ〜親しみやすい〜というイメージですが、昔は境界線的な、区別のようなものあったと思います。。令和の子たちにはわからない感覚でしょうね。。上↔︎下 何が上で何が下なのか。なんだろな〜

OMAさんからのコメントより

OMAさんからこんなコメント。同じ町に暮らしていても、時代が違ったならば、そこに流れる空気感も違う。かつての姿に思いを馳せること、なかなかないなぁと感じました。特に、目まぐるしく変わるのが当たり前な東京では。
でも、文文先生のお宅には、時代を遡っていけるような空気が流れていました。

鈴木信太郎先生が、この地に居を構えたのは昭和初期。
上(北側)の春日通りからは、一区画分の隔たりがあり、3mほど下がっており、とても静かな環境。逆に、下(南側)の狭い通りからは、3mほど上がった敷地。この通りからは、大谷石の石垣しかみえず、階段を上らないと住宅やお庭の様子が分からない。春日通りにも面していない。そんな、上からも下からも一線を画した環境にお住まいだったご一家。成文先生や道彦先生がお育ちになったのは、戦前。時代や社会の影響も強い中で、下町と一線を画す暮らしに、成文先生も道彦先生も「違和感」を感じておられたよう。
道彦先生がお書きになった「フランス文学者の誕生 マラルメへの旅」によれば、この違和感の背景には、信太郎先生が神田でお育ちになった幼少期に、ご両親から受けたものによってつくられた感覚なのだろう、とのこと。

文文先生宅の様子(左側が書庫 建物の向こう側が通り)

住所や地名に見られる「上」「下」は、実際には物理的な状況を示しているのだと思いますが、今でも、暮らしの中の「上」「下」という空間の違いには、差別こそないけれども、人の考えや思いに、少なからず影響を与えているように感じます。
その点で面白いなと思うのは、文文先生宅は下の道や周りを見渡せる程度の高さにあり、上の道には面していない、いわば中間地点に立っていたということ。住所は上に属しているものの、見つめていたのは人情味豊かな下町という環境。これが、戦後の市民の暮らしを見つめて生まれた、51C型の標準設計プランや、近隣関係を構築する視点から考察された住居の開放性、住環境のあり方に関する研究の原点、視座になっていたのかもしれないなぁ、などと、勝手に感じたのでした。
こういう話をしたら、先生はなんて返して下さるかなぁ。

このnoteを始めて、こうやって記事を書いていると、こんなに時がたってからでも改めて発見したり、考えさせられたり、住んでいた頃はできなかったけれど、町の歴史を調べてみたり、ゼミレポートを作成している気分になることがあります。笑
先生と、もっと、この住まいとか、町とか、こういう話をしておきたかったなぁ。

ちなみに、今、地下鉄丸の内線の新大塚駅のある交差点は、チンチン電車が通っていたころは、「大塚辻町」という名前だったそう。
今なら「交差点」と呼ぶし、交差点で町丁目を区分するけれど、「辻」を中心に「町」とみていた感覚は、逆に新しく感じます。
こうした町の名前については、OMAさんにバトンタッチ!


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