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「茶の間」から見えてくる戦後

掘り炬燵 皆で車座 楽しい時間 (4)

さて、前回は「鈴木信太郎記念館」の「茶の間」がもつ魅力を探ってみました!

ちなみに、掘り炬燵のある茶の間は、昭和3年に鉄筋コンクリート造で建設された書斎棟と、戦後に埼玉から移築してきた座敷棟のあいだにあります。
この棟は、空襲から奇跡的に焼け残った書斎棟を中心に暮らしていた戦後、復興の一歩として増築されたものとのこと。

実は昭和20〜25年の時期は、「臨時建築制限令」が敷かれ、住宅建設の促進と、限られた建設資材の有効活用の目的で,不要不急な建築物の建設を抑制するため、建設は15坪までと定められていたのです。そんな中で建設されたのが、玄関ホールや茶の間、台所、浴室、便所からなる棟。
幸い、書斎棟の1階は焼け残り、ご家族がそちらに身を寄せていたようですので、台所や浴室等が建設されたのは、鈴木家としては自然だったのかもしれません。
そうした背景も考えると、限られた資源をうまく使い、家族で肩寄せ合って暮らしていこうとする姿が、こうした空間からも垣間見えてきますし、だからこそ、こうした現代では味わえない、心地よさのある空間が生まれたのかもしれませんね。

建物歴史を写真で説明する 文文先生

一方で、この時期に15坪とはいえ、それなりにしっかりとした造りで、良い材料で工夫を凝らし造っているように見受けられます。そうした部分からは、当時の鈴木家の財力、文化レベルの高さをうかがい知ることができ、この建物がもつ、貴重な資料としての価値もうかがい知ることができそうです。

ところで、現在は、この写真の茶の間の窓の上にあった藤棚は無くなっています。
それに、庭の花や木も、私たちが暮らした当時より、随分こざっぱりしています。
暮らしていた私たちからすると、雰囲気が少し違うな、もっと鬱蒼とした森のようだったな、などと思いますが、これこそ、文化財を守るため!
実は、寄贈された当時、調査を行うと、シロアリが入っていたそうです。
住居の周りに草木が生い茂ると、じめっとして、シロアリが入りやすくなります。
まして、この信太郎旧居は、平らな地形に立っているのではなく、春日通りレベルから3mほど下がった敷地にたっているので、なおさら。
そうしたこともあって、暮らしていた当時そのままというわけにはいきませんが、こうした環境が残っていることで、在りし日の日本の暮らしを感じることができるのも、そして、私たち書生は、いつでも里帰りできるというのも、ありがたいな、と感じます。



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