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映画「すばらしき世界」感想(ネタバレ)

えっ・・・。めちゃよかったんですけど???泣きましたわ・・・ええ、非常に泣いたね。元はと言えば「あの頃。」の感想などを読み漁ってた際に仲野大賀がすごいぞ、という称賛の声に並列されていたのがこの作品であって、監督の名前も「お・・・これは見覚えがある・・・私が最近で一番好みだった映画、湯を沸かすか永い言い訳かその辺りの人だ!!」とおぼろげに思いながら、観賞後ちゃんとWikiったら永い言い訳の監督で「やっぱりな!」となった。監督が一緒だとやっぱそうなるか。感動させられちゃうかー!となった。

ケースワーカーの「提案」シーン

いっちばん泣けたのがここ。刺さりまくったね。まじで。ケースワーカーさんが社会復帰に向けて色々考えてくれるけど、なかなかうまくいかない。そうこうしてる日々の中で、ある日の訪問。「私、ちょっと考え方を変えてプランを立て直してみました」と言って説明し始めた「今までの過去を否定するんじゃなくて、活かせる就職先があると思うんですよね。生活も規則正しく、手先も器用ですよね。」てなことを淡々と説明される場面なんですけど、ここがすごいね、泣いたね!!「過去も受け入れてくれるんだ」って不意打ちよね。これだけでどれだけ救われたことか。「一から頑張らなきゃ」「心改めて、昔みたいにはならないんだ」って「今のすごい自分なんか終わってるから頑張るしかないんだ」、って三上も周囲もそんな感じで視野がなってたのを、覆してくれる眼差しがすごい嬉しかったよね。すごい傷ついた心が包まれるというか・・・。別にそれで突然何かが変わるってわけじゃないけど、その人がすごい能力で彼を変えてくれるわけでもないけど、その眼差しがすごい救いだと思って。でも、この多分あまりにも淡々としたシーンでこれだけ響くには自分も誰かに許されたいって気持ちがあるんだろうな。心のやらかい場所がここなのかもな、などと思った。結局介護職が良かったのかはわかんないけどね・・・

北村有起哉だらけの世界

このケースワーカー役やってたのが北村有起哉。「前はどういうお仕事を?」っていうけどお前もヤクザやったよね?と「ヤクザと家族」の後に見たもんだから、そう思ってしまったし、よく考えたら、「新聞記者」のデスクもやってたよね?となり、直近で見た映画のほぼ全部に彼が出ていた。と言いたくなったけど、あの頃。や花束みたいな〜には出てなかったので全部は言い過ぎでした。ヤクザも新聞記者のデスクも印象深い役だったのでつい・・・しかも新聞記者はDVDで見たから、ただの偶然か。だらけの世界は言いすぎたね。hahaha

おばあちゃんと歌いそしてサッカーする

おばあちゃんが出てきて、「母と再会か?!」とドキドキしたけど、結局おばあちゃんは施設にたまにきてた事務員さん(記憶おぼろげ)だったから再会ならずだったけど、当時の思い出をポツリポツリと話していくうちに、そーいやオルガンでなんか弾いてたよね〜。「なんちゃらかんちゃら♪」と自然にお互いに口ずさみ始める。なんともいえないほっこりできるシーンだった。その後に施設の子共たちと一緒にサッカーするけどこの歌〜サッカーまでの流れ、全てにおいて涙なしでは見れないよね。三上の無邪気な表情を見れて、なんか心底ほっとしたというか「あーよかったねえ・・」という気持ちになり、すごい心洗われるというか純粋な気持ちをみた感じがして、なんともいえないすごく泣けるシーンだったなあ・・・。ほんとうによかったわよ。って思ってたらサッカーのシーンの最後の最後に三上も泣き崩れて、「そんなに!?」とはなったけど、子供たちも「そんなに!?」という表情してて、ほんまそんなに?!やでな。となりました。

仲野大賀のこと

仲野大賀がすごい!っていう触れ込み(あの頃。のレビュー見てたんやからそらそう)だったけら、どんなもんや!と思ったけどすごいのはやっぱ役所広司とか緑子だったなと思ったし、仲野大賀もすごいんやろうけど、ハードル上がりまくってて仲野大賀に泣かされた、心掴まれまくった、みたいなシーンが突き抜けて多かったわけじゃないなという感想です。風呂で背中流すシーンは流石によかったけど、ラストのラストで泣き叫ぶのは「やりすぎでは?」とあの頃の土下座のやりすぎかんと重複する気がした。それにしても、自然な部分は自然だから自然→過剰の行き来が巧みな人なのかもしれないと勝手に分析したりした。そしてなんと言ってもこの役、私の知っている人にめちゃ似てるやないか!とまずビジュアルの似てる具合に驚き、その前の職場がマスコミ系だったので(映像じゃないけどね)その境遇と、その人もその仕事しながら小説家目指してて、(結局仕事はやめたけど。小説家の賞みたいなの、後に受賞してた)、もうその知り合いにしか見えなくて「わー」と感心する気持ちが終始あった。花束〜のときもそうだけど、なんかこういうサブカル男子みたいなのて、もはやあるあるねたの領域になってきてるんかと思うと、矛盾を感じるわ。彼らも個性を出すために黒縁メガネかけてニットかぶってMac使ってるはずなのにね。そういや奥田民生になりたいボーイとかもそうだけど、もうだいぶ前だし今更感慨ふけるもんでもないかもしれん。でもなんか、こう、次第にカメラを向けるんじゃなくて人として向き合っていきたいな、っていう姿はわかりみあるなと感じた。そして思ったよりも髭が濃いんだなと思った。あの頃。に続きお尻も見れたな、とも思った。

緑子かっこよすぎやろ

緑子のカッコよさにしびれた。「私らはもうなるようにしかならん。けどあんたはまだ未来がある」ってすごい確信を持って力強く伝える姿がカッコよすぎたし、そうやって「確信」が持てる人はたとえ落ちぶれても一生かっこいい人なんだろうなって思い、とにかくかっこよくすぎるという言葉しかない。そのくだりの中で一瞬、目が「キッ」となって力が充填されるような瞬間があるんやけど、それがもうかっこいいよね。三上への愛情でもあり、「ヤクザの業界はもう終わっとる」っていうある種の覚悟でもある。ただただ、この業界が廃れていく様を日常としながらも常に胸の中に確信がある人なんだなと。そもそもヤクザの世界に戻りたい気持ちいっぱいで九州まで来たけど・・・色々、特に元ヤクザっぽい植木職人の背中見て三上も思うところあったんだろう。緑子の言葉に結構納得というか「せやな」って感じしたよね。あれだけ身体中にヤクザが染み付いている人だけど、もう、あの判断しかない、って感じだった。あのシーンは印象的だったな。その後ずっと象徴的に出てくる「空」のキーワードもここで出てくる。「社会に適合するのもかなりきついけど、それでも(塀の中に比べたら)空が広い。それだけは確実なんやで」的なことを緑子がいうんやけど、これがほんまに、あまりにもいい台詞だなと。とてもそう思った。

職場の男の子と土いじりの幸せ。からの悲劇

黒いゴムの容器からお花を抜き取って花壇に植えるときの、あの介護職の同僚の男の子と過ごす、ほのぼのシーンがあまりにもほのぼのしてて、すごい温かい気持ちになった。三上も男の子も、すーごい優しい顔してて、すごい優しい世界だったよね。「こんな幸せな日々が一生続けばいいのに」と願わざるを得ない本当に素敵な場面だった。だけど物語とは残酷で、この幸せと同じぐらい残酷な出来事が割とすぐ後に起こる。男の子が同じ職場の職員にいじめられているのを三上が目撃しちゃうんよね。また弱い一般市民がいじめっ子にやられてるというシチュエーション。少し前に三上が暴れ散らかして仲野大賀演じる津乃田がドン引きし、そしてビビり散らかして逃亡するという・・あれの再来だ!!と観てる方もすごい手に汗握ったわけよね。これで殴っちゃったら、暴れたら、せっかくケースワーカーさんが立ててくれて、そしてみんなでケーキを食べて門出を祝福してくれた就職。そんで身元引き受けの奥さんが「暴れちゃダメだよ、そういう時は私たちを思い出して」って言ってくれたことも、そうやってちょっとずつ少しずつ築いてきた奇跡的なこの今の小さな幸せがオジャンになってしまう!!!と本当にこの瞬間、息が止まるように緊迫感があった。だめだ!ダメだよ三上さん!!!と叫びたいほどに。そしたらそれは妄想シーンでちゃんと殴らなかった。「ふ〜〜〜〜〜!も〜驚かせんなよ〜〜」と胸を撫で下ろす。それでも耐える姿も本当にギリギリで、比喩じゃなくて這いつくばって耐えてた三上。すごい。耐えた。でもその後もう一波くる。さらにいじめっ子がいじめるだけじゃなくて、悪口、悪意あるものまね、犯罪者dis、障害者disと畳み掛けるように辛い状況。このシーンは手に汗も握るし、結構本当に辛いものがあった。「ちょ、お兄さん、価値観のアップデートとかね?聞いたことあるよね?そろそろ黙ろうか?」と言いたくなるような・・・でも正直、ここまでしつこくはないにしても、一つ一つの言葉選びは、割とこの世の中にありふれてる、リアリティある感じがあり、非常にこっちにも普通に辛みがある場面だった。「割食ってんの、こっちっすよ」て。確かにそれはあるだろうし、誰かに愚痴りたくもなるかもだけど、話す相手考えような?どこに当事者おるかわからんのに不用意に言ってはダメやで?ともう、言わずにいられない気持ちになった。まぁお年寄り危険な目に合わせるのはダメだし、ちゃんと仕事せずにスマホ見てたら怒りたくなるのもわかるけどやで。でもやっぱ、あの二人の幸せな土いじりシーンみた後だから「誰にもあの二人の幸せを奪わないで」って気持ちになってるんだからこっちは。そんで、その悪口大会も三上は頑張って耐えた。暴力や怒号が反射的に出てたこれまでとは違い本当に頑張って堪えた。笑顔で受け流した。逆にこっちがしばいてやれよ!ってたきつけたくなるほどにイライラした場面だったけど笑顔で受け流した。本当に偉い!で、その後にいっぱいのコスモスを両手に抱えてにっこり現れる男の子。「台風が来る前に、花を持ってきたんだよ、三上さんもどうかな?」って微笑むわけよ。多分、姿が見えて男の子の顔見るまでの間「ごめんね。俺は何もしてやれなかったよ」ってそう胸の中で反芻してたんやと思うのね三上は。だけどその笑顔見た瞬間「ウ、ウッ」ってもう涙しかない。その「ごめん」も全部打ち消すような・・・「お花が綺麗だよね」っていう気持ちだけ。それだけの気持ち。本当に泣ける。なんなんだろうこの気持ちは。お花を綺麗っていう気持ちを分け与えてくれてありがとうって本当に言いたいよ。誰もこの子をいじめない世界になってほしいよね。そう願うよ私は。

長澤まさみの役どころ

これが本当に絶妙!!この人の存在が絶妙。絶妙すぎるほどに。なんていうか・・・この映画を見るときに、この存在がいることによって、「世間のはみ出しものが、奮闘している様子を、コンテンツとして眼差している自分」ていうものへの問いかけみたいなのがハッキリするというか。そのコンテンツを消費するのが悪なのかどうか答えを教えてくれるわけじゃないけど、その視点は無視できないよねって教えてくれる存在よね。そもそも長澤まさみは「面白がってる」「弱者をコンテンツとして消費している」側として描かれている。「私たちだって人ごとじゃないの。世間のレールからはみ出すのが怖いのよ」って高らかに述べてみせるシーンの胡散臭さがすごい。私も普段、ネットでいろいろな意見を見るときにこの論調のような感情を抱く。それを知りたくて、レールから外れた人の経験を知りたいと思うし。自分も人ごとじゃない、ってよく思う。だけどたちまちそれを口に出して行ったときにどうしても「高みの見物」感が出るのは何でだろう。だけど一方で三上はそう感じてないのよね。スクリーンの向こう側に語りかける存在とでもいうべきか。そして、だけど、津乃田がビビり散らかして三上の殴り合いの場面から逃走したときに「カメラ回さないなら喧嘩止めろよ!止めないならカメラ回して"伝え"ろよ!!どっちもできなこのクソガキ野郎!この偽善者!」みたいなこと言うんだけど、「えっ・・ジャーナリズム・・・」となった。急に真っ当にかっこいいこと言うもんだからびっくりした。

ヤクザと家族の次に見たので・・

綾野剛主演の映画「ヤクザと家族」の次に見たって言う順番も良かったのかもしれん。

そもそも「ヤクザの肩身がどんどん狭くなってくる世間」、「出所してきた人間に対する風当たり強さ」みたいな、この映画を見る上で必要な予習事項を全部クリアしてたようなものだから、あまりにもスッと入れたと言うか。緑子の言葉の重さをより感じれたのもヤクザ業界の辛さをあらかじめ予習できてたのでより、厚みがあると言うか重くリアリティに感じれた。出所した人に向けられる厳しい目があることを身に染みて感じられる予習のおかげで、六角さんやケースワーカーさんや身元引き受け人の優しさがすごく心に染み入った。本当にさりげないし、人生を投げ打って関わるんじゃなくて「自分のできる範囲で助けるよ」って言う距離感にすごい救いを感じた。スーパーで六角さんに出会って。本当にちょっとした思いやりで繋がることができた人間関係にすごくハートがウォーミングされたなと。自分のことを絶対的にわかってくれる人を一人見つけてその人に依存するんじゃなくて、そのまた逆に、何もかもを捨てて自分が猛烈に救いたい人に一点集中で愛情を注ぐ・・わけでもない。だけど、お互い、少し一歩踏み込んだ関係というか。心が動く関係なのが、なんか救いだなと。ヤクザと家族は、関係が濃すぎて、お互いがお互いが共倒れする執着し合う関係で滅んで行って救いがなかったけど、すばらしき世界にはそれに少し距離感があることで救いがあったよな、って今振り返るとそういう違いがあるのかもなぁと思った。あの、みんなで自転車をプレゼントするアイデアも本当にいいよね。あの自転車のシーンも好きだなぁ。

世間の風当たりについて

スーパーで万引きを疑われる、免許証のことも配慮してもらえない、生活保護を受けようにも難癖つけられる、病院でも「治療方針に従えや」と冷たくされる・・・・色々と普通に生活している中で、そういう偏見みたいなものや、偏見じゃなくても本人が疑心暗鬼になり卑屈にならざるを得なかったり。そういう場面が多く登場するけど、そこで意外と好意的な面も見せてくれたりする。「厳しい風当たり」のための道具になってない感じが絶妙!と思った。ケースワーカーさんもはじめはぞんざいな扱いだったけど、「自分にできることは相談して」って言って徐々に親身になってくれ、免許証の説明する婦警さんも「事情はわかるから、突っぱねるわけじゃないねんで」とお気持ちを示してくれたりもする。スーパーの六角さんも最初は疑わしい目で見るけど、会話するうちに打ち解けていく。みんな話せばわかってくれる。だけど初対面の人はどーしても・・・ていうその現実味のある「世間の目」が描かれてて、辛さと救いとどっちもだな、という感覚になった。

ラストあっけなさすぎ

ここまで色々、色々、細かい日々の積み重ねで小さい幸せを手に入れて。だけどまだまだ抑えられない衝動もあって。でも1度も抑えられたためしのない暴力の衝動を必死のパッチで堪えて。持続可能な幸せの道を歩み始めたかのように見えた・・・ところで突如訪れる死。「えっっ・・・?????」「Why???」あまりに青天の霹靂で逆に「まあ、人は死ぬときは死ぬわな」という感情だけが残った。結局人間は事件性のためやコンテンツのために生きているわけじゃなくてその時々の出来事の積み重ねでしかないから、死ぬ時が来たから死んだだけなのでは。という感情になった。それにしても唐突で・・・それまでの話が良すぎただけに、一応その理由があったとすれば、ということを考えてみた。血圧が高くて苦しくなっていつ死んでもおかしくない状況、という体調だったわけだから、コーフンして血圧が上がって血管が切れてしまったと考えられる。つまり・・・「暴力の衝動を抑える」こと、「理不尽を受け流す」ことがあまりにもストレスフルで、直後に男の子がコスモスをくれてあまりにも度合いの高い「幸せ」の感情が訪れてその感情の起伏で胸がいっぱいいっぱいになって倒れちゃったと。そう考えるしかないし、それ以外の理由があまり思いつかない。なんにしても、あの嵐があまりにも不安すぎてもう嵐が来た時点で「嫌な予感」しかなかった。そういう意味では「嵐が来たから」が正解なのかもしれない。私が一番嫌なのは「人生満足した。」的な理由かな。その理由が一番嫌だな。三上はまだまだ幸せになる権利があったと思うよ。私はそう思うよ。だから、三上はなんの運命も背負っていないし、三上の人生は三上のものだし、死はたまたま訪れたものだよ、と言いたい。だから津乃田は泣き喚いていたけど、そう悲しむこともない。お前はお前の人生を頑張りなさい。三上が死んでも君の人生は続くし、大丈夫だよ、と言いたい。(何様だよ)

虐待された子供

三上と津乃田との関係を見つめていると、津乃田が途中から「虐待を受けた過去があるから、暴力の衝動を抑えられないのでは」と勘づき始める。暴力の衝動をコントロールし、社会に適応していくためにはその衝動の理由と向き合い、根本的に改善していくべきでは。と津乃田は考える。そこの三上との関係性を見出し、「俺がなんとかしたい」っていう、その三上に踏み込み、自分もどこか変わっていく、みたいな感じが物語の中でも割と重要な描かれ方してたと思うけど、結局その着地はどこだったんだろう?そこを長い時間をかけて二人で解いていく未来を予想していたので、あのラストは意外に感じた。「あれ?続きがあるんじゃないの?ここで終わるのwhy?」と。だけど実はどこかで着地してたんかな?私が見逃してただけで。結局この映画の中ではそこを明確に言葉にして解決はされなかったよね。その、お母さんに置いてかれたことの気持ちについてもっと具体的に掘り下げるのかと思ったらそうでもなかった。ある意味、いろんな創作物の題材になりがちな、今抱えている闇は全て小さい頃の親からの虐待(暴力やネグレクトetc)みたいなのはあまりにもありがちすぎて、説明する方向に行かないようにあえてしてたんかな?そうやって型にはめるのはどうなん?的な感じなんかな?

昔の写真や映像

あれどうなってんの?あんな技術、これまでの映画にあった?と、素朴に思った。昔の映像や写真を加工しているのか、新しく映像や写真を撮り下ろして加工したのかどっちなんだろう。

まとめ

私も三上や三上を見守ってくれる人みたいになりたい。そして空を見上げたい。自分の過去や短所を見つめすぎて、見つめなきゃとなって、辛くなる。辛くなって優しくしてくれる人に当たり散らかしたり、優しくしてくれる人のことを疎ましく思ったり、今より居心地の良いっぽいところに逃げたくなる。人のことを助けたくて、助けたいのに自分の力ではどうしようもなくて愛想笑いするしかない。だけど、助けたいと思っている人の笑顔に癒される。そこに本当に幸せを感じてどうしても泣きたくなる。子供のときみたいに目的もなく走って、はしゃいで、笑って。誰かと一緒に歌を口ずさんで。もうそんな自分には戻れない。悲しい。だけどその気持ちを思い出すことができる。いいよね。だから三上には死なないで欲しかったんよ。だけどこれも現実。現実は意味とかない。それだけ。おわり。

追記

ラストシーンについての考察で読んだとあるブログの中に、「苦しくなったときにいつもなら高血圧の薬を手に取るところ、この日の三上は薬ではなくて友人の笑顔を思い浮かべコスモスを手にとった」的な記載があり、「むむむ」となった。これがそうなら辛いので目を背けたくなる。だって生きることよりも、そっちを「選んだ」ということになるもんね・・・。三上が生死を選択していたのなら辛いし、そういう価値についてあきらめや、満足などを抱いているのなら悲しいなと思った。私は希望を持ちたいので、この解釈は取らないことにするが、なんで突然死んでしまったのか、その意図がそうなら、そうなのかもしれない。あるいは原作がそうだったのかもしれない。弱いものいじめを見過ごすことがあまりにも辛く、それが「社会への適応」なら、もう適応したくない。これまで十分人の暖かさにも触れたし三上は幸せだっただろう。みたいなのは嫌だなと、、、三上はまだ幸せになる権利があるぞよ!!!あまりにも辛くて逃げたという解釈もあるのかなぁ。純粋に悪や理不尽や不本意を我慢して受け流すことが辛くて「これ以上はしんどいな」と思ってもう、それならこの世に未練ない、みたいなことを思ってるとしたら悲しいし辛いよね。元奥さんとも会えたかもしれないのに。それこそ見えない大きな力のせいで、例えば自然のせいで、体調のせいで死んでしまったなら仕方ないけど、もしそこに三上の選択が働いてたとしたらこんなに悲しいことはないしその解釈は辛すぎるから私はできない・・・・と思った。、


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