アスリートのお話
現在、東京オリンピックが開催されており、各種目において強靭な肉体を持ったアスリートたちが鎬を削っている。
本稿はアスリートの自主性について、ミュージシャンとのごく若干の比較を通して論じる短文である。スポーツマンにとっては極めて不快な内容であること受け合いなので、その点に留意していただきたい。
アスリートは、日々肉体的に過酷な鍛錬を繰り返している。長距離を長時間走り、一般人では両手を使っても到底持ち上げられないような重りを、片手で振り回す。しかし、彼らは強いられているわけではない。不本意に他者から強制されて心肺機能を強化しているわけでも、二頭筋を発達させているわけでもない。本人たちの意思で、嗜好してそれを行なっているのである。彼らの努力には敬意を表するべきだが、その努力は、現代社会において全く不必要にも関わらず、人為的な目標の達成のために好き好んで実施されていることにも注意しなければならない。
上述のようにアスリートは血の滲むような努力をして、その成績を競う。そして彼らは栄光を手にした時、「努力が実った」と思う。それはまったく正しい。鍛錬を重ねたからこその成功であり、勝利である。アスリート全員がかように謙虚であれば、問題は生じ得ず、本稿も執筆されることはなかった。しかし、彼らのうち傲慢なものは、「栄光を掴み取った」「自身の力で道を切り拓いた」などと思う者がある。これは全くの間違いである。彼らは、確かに試合中は自身の判断と実力で物事を進める。しかしそれは当たり前で、そうでなければ森羅万象の事態は進まない。こと個別の行動について自身の判断で完結させるということは、人のみならず猿にもできる。問題は「如何にしてその試合に出場しているか」である。
アスリートはチームに所属している。そうでなく公園で運動をしているのならば、それは単なる運動好きである。アスリートとは、何らかの競技のチームに所属して然るべきである。アスリートが試合をするためには、練習試合やリーグ戦、カップ戦などに出場する必要がある。では、それらの試合は誰の手によってマッチングされているか。チームスタッフ、あるいは行動力のある他者によってである。チームスタッフや部活の指導員などが、練習試合の相手に連絡を取り、大会にエントリー用紙を送る。また、草サッカーや草野球などのチームはプレイヤーであろうがなかろうが、行動力のある代表者が他チームや大会運営者とコンタクトを取る。基本的に所属しているアスリートは一切関与しない。日々、自身の嗜好に沿った運動を行えば、試合の日はやってくる。大好きな競技の試合に出場し、大好きな競技を実行すれば、最も運が良い場合プロにまでなれる。
「試合出場のチャンスを掴むためには努力が必要だ」という反論があることは想定の範囲内である。無論、チームに所属する全員が試合出場できる訳ではないことは承知している。しかし、彼らはチームに所属している限り、決まった時間に決まった場所へ行けば、監督なり、コーチなり、アピールをする対象者がいる。チャンスは毎日、向こうから迎え入れる形で与えられているのである。
ではここでミュージシャンとの比較を試みたい。アスリートは、チームに所属してさえいれば、何の手続きも無しに、アピールのための場は用意され、勝手に試合の日は設定される。これに対して、ミュージシャンはチームというものは存在せず、他者に見つかるためには路上ライブやライブハウス出演、音声、動画配信などを能動的に行わなければいけない。路上での演奏許可手続きも、ライブハウスへの出演申し込みも、音声録音やその配信手続きも、自分から「この日に」と決めて行わなければならない。また、自身の実力が未知数なうちに、他者へ作品や実力を売り込むことは、極めて高い心理的障壁となる。アスリートの場合、唯一の能動的申し込み的行動は、部活の入部届提出である。だが、この行動も、学校側から全員に紙が配布され、いつまでにどこに提出すればよいかの告知がある。もっと幼い頃の少年団入団であれば、これは親が手続きを行う。また、部活に関しても、運動部のない学校は極めて珍しいが、軽音楽部などミュージシャンが活躍するための部活は設置されていない学校もある。吹奏楽部は多くの学校に設置されているが、この部活には編成に組み込まれる楽器の種類に偏りがある。
以上のように、アスリートは極めて過保護に、用意された舞台で、用意されたチャンスを利用して活躍している。したがって、アスリートには、彼らの一部が自覚しているほどの自主性は認められない。そのため、部活やクラブチームで活躍する者が、傲慢な態度を取ることはその過程を分析すると、決して許されることではないのである。また、彼らの努力は手放しに讃えられる風潮があるが、その努力というのは、彼らの多くが馬鹿にするような、一日中部屋に篭り、日本全国の鉄道時刻表を記憶しようとしている者と、「好きなことを楽しむために行う努力」という点では同一の類である。一方で、努力云々の点では共通するものの、ミュージシャンは努力の傍ら、プロになるまでは全く自分の力で、全ての活動の手続きをこなさなければならない。しかも、非常に高い心理的障壁を克服する必要さえある。ミュージシャンにも、アスリートと同頻度で自動的にアピールするためのチャンスが巡ってくるような仕組みが設立されることを切に願う。
本稿の総論としては、結局のところ、自身が苦手な運動を好き好んで実施し、学校内カーストでは上位に君臨し、好き好んで行ったことを努力と称され脚光を浴び、我々のような人間から意中の人を奪い続けているアスリートがもてはやされているのが、筆者は妬ましいのである。
※筆者は熱狂的なサッカーファンである。
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