愛や工具に近いもの。看板にも液体にも見えるもの。とにかく、責任だけは背負いたくないものです。

 縄が切れ、"こけら"が落とされた。
"こけら"は、踏み固められた雪道の上に下品に転がった。観衆は屈強なガードマンと真面目そうな係員たちに囲まれながら、固唾を飲み、それを見守った。"こけら"の方ではなく、自分の足元を気にしながら歩くただ一人を除いて。
「あの、この辺りに柿が落ちていたはずなんですが…」
係員の一人に、青年が声をかけた。
係員はよく訓練されているので、青年を無視し続けた。
「あの、この辺りに柿が落ちているはずなんですが…」
青年は別の係員に尋ねた。しかし、やはり係員はウルグアイ国旗(アルゼンチンではダメ)の太陽のような表情で青年の方を見ようともしない。頭の中では「"こけら"は落ちてるけどな」と呟きながら。

 青年はセルビア人である。といっても、セルビア国籍を持っていたり、セルビア民族なわけではない。かといって、もちろん名前が「セルビア人」というわけではない。彼はただ、「セルビア人」なのだ。そして、ここは奇しくもブダペスト──。


 青年は尚も柿を探し続けた。観衆も含め、その場にいる全員に聞いて回ろうかとも考えたが、それが如何に馬鹿げたことかを瞬時に理解した。現場には24,500人以上が詰めかけていたからだ。何せ、"こけら"である。しかしこれでも例年に比べれば少ないくらいだ。例年は観衆の数など数えることができない。「観衆」という意味の単語が、この時期世界各国で不可算名詞扱いとなるのは、そのためだろうか。数えることができないし、一部を取り出してしまうと、それはもはや観衆として機能しなくなる。まとまりの全体として、ワラワラ蠢く様こそを指して「観衆」である。その理由のため、「観衆」はやはり不可算名詞で正しいのだ。

 落ちた"こけら"は「密約」の夢を見た。アイデンティティの揶揄、同化政策、オフサイド、可換環──。
そういうものの中に含まれるあらゆる「密約」が、"こけら"の夢を埋め尽くしていた。それは立方体に近い部屋の前を高速で移動しながら(遠ざかことも近づくこともある)透視し、俯瞰するような、極彩色の光で自身の歯の隙間という隙間をぬめりが出るようにしっかり掻き混ぜるような、そんなイメージ。あるいはそういう一切のイメージが、物音ひとつ、瞬きひとつ、拍動の乱れひとつで打ち崩されてしまうような、そういうイメージ自体のイメージ。


 落とされた"こけら"は観衆を睨んでいた。もちろん、"こけら"の側は目こそ見開いている(そもそも、"こけら"に目があるかどうかすら怪しいものだが)ものの、先述の夢を見ていたので、民衆のことなど見えていない。しかし、民衆にはそれが分からないし、目はしっかりと開かれていた(無論、そういう感覚に陥っていたという言い方もできるが、ここでは比喩的な記述方法を選択した)ので、とにかく民衆たちは"こけら"に睨まれていると確信していた。ただ、くだんの青年だけはブツブツと何やら言いながら歩いていた。

 落とされた"こけら"とはつまり、有名なトリックスターに他ならない。ラディンによって記述され、解剖された、あの憎く愛らしい、禁忌を破り、指差す男を真似し、両手を争わせる、トリックスターなのだ。

 青年は池まできた。なにも、今はなき友人ステファンの幻影を追って来たからではない。そうであるなら、ステファンの霊魂は真っ先にウエストミンスター寺院に向かい、敷地内を疾走しただろう。青年がロンドンへ渡らなかったということは、つまりステファンを追っていたわけではないということになる。ここでひとつ、読者には「なぜセルビア人の青年は柿を探しているのか」と尋ねることが許されよう。理由は至極単純である。"こけら"の漢字「柿」とくだものを表す「柿」は非常に似ていたからである。つまり、哀れな青年は"こけら"目当てで、賃金14ヶ月分の大金を使い、わざわざブダペストを訪れた(繰り返しになるが、青年は「セルビア人」なのであって、セルビア国籍も持たないし、セルビア民族でもない。また、セルビアから来訪したわけでもないのである)にもかかわらず、漢字の読み間違いで、その機会を逸したわけである。ここでさらに読者は、「何故彼は漢字が読めたのか」という疑問を持つことが許される。そしてその答えとして「彼が日本で教育を受けたから」というものが用意されている。しかし特に注意してもらいたいのは、彼が些かの戸惑いもなしに、ブダペストの係員に「柿」の在処を尋ねたことだ。勿論、ここでの言語上の問題で、一般に想定される可能性は次の3つがある。まず、ブダペストの係員が、この国際的なイベントに備えて英語を習得していて、青年が英語を使った、あるいは青年はハンガリー語ができた、そして残るは
、青年は日本語で彼らに尋ねたが、係員は日本語を知らず、それ故に無反応だった。ところが、事態はそのどれにも沿わない。つまり、青年はマスコギ語の何らかの方言を話していたし、係員も全員奇跡的に(これは本当に奇跡的に)、その言語をほぼ完璧に理解していた。なのに係員は無反応だった。まるで青年がそこにいないかのように──。

 "こけら"は静かに運ばれていった。誰によって運ばれたのかを記す必要はないし、筆者はそうしたいとも思わない。ただ、落とされた"こけら"は運ばれていき、観衆も少しずつその連帯を失っていった。青年はといえば、それこそセルビアに到達していた。彼は未だ「柿」を探し求めている。ただ、異変には彼も気づいていた。看板にキリル文字が認められたからである。жの文字を彼は知っていた。発音こそ知らないけれど、それがキリル文字であることは容易にわかった。しかし、彼はハンガリー語の正書法、あるいはセルビア語の正書法に疎く、ハンガリーでもキリル文字を使うものだと思っていた(ちなみに彼はクロアチア語は読めた。ラテン文字表記のセルビア語さえ見つければ、彼はただちに現状を理解するはずである)。彼がいつ"こけら"落としの終了を知るのか、そして自身の現在地を知るのか、それは私も知る由もないし、貴方達もそうだ。ただ、「知る」「知らない」のシーソーだけが、ギッコンバッタン動いている。あるいは水平を保っている。ただ、彼が気づき、「知る」には、もう少し時間がかかるかもしれない。

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