王国を持つこと
自分の王国を持つことが芸術家にとって一番大切なことである。
その王国を持っているかいないか、それが一等の要であり、そうでないのならば文学賞を獲ろうが、ただ作文コンクールで優秀賞を獲っただけであって、長い目で見れば価値のない誘惑である。
誰もが評価する作品は前衛になり得ないし、前衛は多分に評価されない。先を行き過ぎているわけだ。
賞というものはとかく魅惑に満ちていて悪魔の囁きである。
本日アカデミー賞を受賞した『ノマドランド』もまた、様々な幸運、時の運で射止めたのであって、数年後には埋もれているかもしれない。本当の傑作は忘れられないものである。然し、『英国王のスピーチ』や『アーティスト』、或いは『クラッシュ』なんて、今は誰が喜んで観るのだろうか。
これら全て、あのハリウッドでも権威のあるオスカー受賞作である。
『シェイプ・オブ・ウォーター』は中々いい映画だが、あれも佳作である。
人は忘れっぽい生き物だから、話題になろうと2、3年経てばもう忘れてしまって、大ヒットして消費しつくされた作品は、反対に今読んだり観たりすると恥ずかしく思えてしまうものがある。
然し、王国を持つ人間の作品は頑健である。それは、彼にとり信仰とも呼べる神との対話を書き出しているからかもしれない。
例えば、ヘンリー・ダーガーは死ぬまで一切、誰からも省みられることもなく、掃除夫の仕事を続け、最後には孤独死したが、彼には『非現実の王国』という王国があって、そこにはペニスをつけた女児たちが神たちと血みどろで闘う聖典が描かれていて、この両性具有の物語は発見者を震撼させた。
この聖典は10000頁にも及ぶ、コラージュだらけの労作で、然し、それは彼の心の祭壇で、誰に見せるでもない王国の具現である。これには現代アーティストの村上隆も衝撃を受けたと言っていたが(真の意味で、何の勉強もなくこれほどの作品を作り上げることに驚嘆していた)、数多の贋芸術家は彼に嫉妬しただろう。彼は熱心なカトリック教徒だったという。
また、宮沢賢治も死ぬまでに二冊の自費出版しか本を出していない。『春と修羅』、『注文の多い料理店』の二冊であるが、どちらも捌けなかった。彼は岩手をイーハトーヴという王国に見立てて、物語を編んだ。童話の創造主だった。イーハトーヴは彼の理想郷で、彼の信仰する法華経がその宇宙形成に影響を与えている。
また、フランスの郵便配達員のシュバルはアウトサイダーアーティストとして有名で、仕事の傍らに集めた石で造ったシュバルの理想宮は計算のない(或いは彼の頭の中で緻密に組み立てられた)神殿だった。
彼は33年という歳月で、その宮を完成させた。
私は無神論者だが、自分の王国を持つものは、何か神に関しても深い畏敬の念があるように思う。それが、常人には思いもよらぬ世界や、ブレーキすらをも踏み抜くことによって、芸術を生み出す原理なのかもしれない。
世の中に顧みられなかった天才は、その天才を知覚した秀才に拾われ、喧伝される。そうして、その秀才の見つけた宝石の輝きは、その先の子どもたちへの遺産となるわけである。
小説を書きたいのか、小説家になりたいのか。
前者には神も恩寵を与えようが、後者ならば救いようがない。
コミュニケーションと報告のレジメを書くだけならば、実生活でも出来ることだ。そして、そのような人間は、その実生活の尊さをわかっていない。
芸術とは前衛であるし、彼ら(文学賞)は前衛を求めていると宣うくせに、旧態依然の審査方法と、過ぎ去った前衛が審査を務めるのだから矛盾の極みだ。
要は、100年先を見据えるべき、ということである。
目先の読者に向けてではない、100年先の読者へ向けて、文章は書かなければならない。そして、王国を持つものは、自然とそれが出来ている。
何故ならば、人間は全て総体であって、私も、あなたも、そして産まれてくる君たちも、所詮は一つでしかないのだから。