ヒバリ12. 「誠」 、「礼」、「恩」のあった昔からの日本人 今は○○に汚染されている 武田邦彦氏
12回目 「小金と誠」 2020.8.13
私が最初に渡航したのはアメリカのボストンだった。ボストンは、アメリカの中では学園都市(36くらいの大学がある)であり、街も古い感じのとても良いところだった。
しかし、それでも日本に比べたら全然「街としての体裁」をなしていなかった。
行きはニューヨーク、帰りはワシントンから帰ったと思うが、全体として「極めて危険な、自分勝手な、自分だけの国だな」と思った。
日本では江戸時代の頃、中国の川を渡ろうとしたら渡し舟があった。そこでは必ず、今の値段で10円を渡さなければいけない。しかし船頭は、お客が外国人だと50円だと言っていた。
日本ではそんなことはない。渡し舟の料金が10円であれば、相手が日本人でも他の国の人でも関係なく10円である。しかし、それは日本だけだという。
イザベラバードの旅の記録(日本の東北の方)に、あるところに非常に親切な女中さんがおり、とても助かったのでその宿の出掛けにその女中さんに包んで金子を渡そうとしたら、「いえ、私は自分のやるべきことをやったまでですので、そういうお金はいただけません。」と言われて本当にびっくりしたという記録がある。
ハリス公使(日米修好通条約を締結したアメリカの外交官)が日本に来てしばらく経った後に「日本に来てみると、日本の文化の素晴らしさがわかる。私たちの文化をこの国に持ちこんで、むしろこの国の人が不幸になるのではないか。」という言葉を残している。
日本人の幸福という観点で、国の体勢としてみれば、天皇陛下お一人が国民の象徴であった。
貴族はいたが支配階級ではなかったし、「日本列島は日本人のものである」という概念の、世界でも稀な素晴らしい国であった。
そして、「神」についても、誰が神様、あれが神様、などケチくさいことは言わずに「自然が神様である」「祖先が神様である」と自分たちを作ったもの、この地上に私たちを送り出してくれたものを神と言って崇めた。
さらに「男性」や「女性」を比較しない。どちらが得をする、損をする、どちらが上か、下か、ということをしない。女性は女性の能力をフルに生かして幸福な人生を送ってほしい、男はどちらかといえば、「女性のために死ぬ」というスタイルでいくんだということもハッキリしていた。
日本人は外に攻めるわけではなく(そう言うと、豊臣秀吉のときに朝鮮へ行ったじゃないか、と言う人がいる。まあそういうことはあるが)世界全体の歴史を見れば、日本は外に全く行かなかった(外へ攻めることをしなかった)のである。
洋東で戦死された少々の方が言われた通り、日本人は日本国の中で一生懸命生きてきたのである。
日本人全体としてはそうだが、日本人の個人としてはどうだったのか?
中心は、「誠」「礼」「恩」、他にも徳目はあるのだがこれが大きい。「誠」するべきことをしただけなので+αのお金はもらわないという女中、「礼」丁寧にお辞儀をする、とても礼儀正しかった。
「恩」。(英語にはない概念、英語では「契約」)となる。主にこの3つが日本を幸せにしてきたと思う。
日本は法律がいらない。それは「誠」が通じ、「礼儀」が正しく、「恩」を感じるような人たちの集まりだったからである。私が大学の時に、色々企業から研究の委託をもらった。「研究委託契約書」というものがあるのだが、記憶している中では私は中身を見たことがない。
日本人は、「契約書に基づいて仕事をする」ということをやってきたことがない。私が大学(教授)の時に企業から研究の依頼をされたら『誠心誠意、その研究を頑張る』ということだけなのである。
今も、講演の依頼などされた時に契約書が送られてくることがある。「途中で契約を解除したらどちら側からどのくらい払う」などである。私は「そういう契約を結ばなければならないのなら私に講演を頼まないでくれ」と言っている。
講演というのはその人の魂に触れることをするのである。契約に基づいて講演して何の意味があるんだろうと思ってしまう。私でも少しの風邪なら押してでも行くが、立ち上がれなかったら仕方ないのである。そういう人間に「契約を違反したから講演料を払え」というのは私は理解できない。
逆もそうで、今回のコロナでずいぶん講演がキャンセルになった。みんなビクビクして「先生、違約金はどれぐらい払えばよろしいでしょうか?」と言ってくるのだが、もちろんいらない。誰かが悪いわけではないので仕方がないと思う。
日本でもアメリカ型の「訴訟社会」を作ろうとした悪い人がいた。弁護士の数を増やして訴訟が怒るのを待っていたが、あまり増えなかったのである。いいことである、日本に訴訟はいらない。
「全員参加」「他人のために」
我々が55,000年前に多細胞生物になって、2億年たって、多細胞生物1個だけだと幸福に生きることができないということがわかり、群れ(集団)を作ったと言われる。
集団のために生活をする、集団のために死ぬ(特攻隊)、これが正しいのである。
私たちは集団の中にあり、集団から生かしてもらっている。これを理解しているだろうか。
お米を作った人、魚を作った(獲った、加工した、調理した)人、交通機関に乗れば、運転手や整備士さん、そういう人たちがいなくて私たちはどうやって生活していけるのだろうか。
統計的にも「他人のために行動した人が長寿」(傾向)であるということがいえる。
昔から「坊主と先生は長寿」だと言われている。坊主がいなくなるとお経をあげてくれる人がいなくなるので「お坊さん、長生きしてくださいね」と言われやすく、先生がいなくなれば子どもを教育してくれる人がいなくなるので「先生、お元気で」と言われてきたのである。
「他人のために働く」職業の人は、他人が本人に対して「感謝の目で見る」。これが長寿につながるのである。
私に生きている価値があるか?と言われれば、ないのである。もし私が他の人のために少しでもいいことをすれば、他の人が私の健康を心配してくれる、ゆえに私は少し健康になる、という順序である。
「東京都」も群れであるし、「岩手県」「香川県」もそうである。
今日、移動の仕事があった。その時に「小金を求めてウソをつく」人にあった。
「あなた、それはウソじゃないですか?」と言ったら、彼は絶対に譲らなかった。どうしてかというと、会社にそう言えといわれているからである。私の「本当ですか?」という問いには心が咎めたのか「本当です」とは言わなかった。「誠」と、「小銭」を比べて「小銭」を選んだのである。
今のテレビ局がそれである。上の人で年収1,800万円の小銭を守りたいために、コロナにかかった人が、たったの5万人(風邪は4,000万人)であるのに脅しに脅し、「小銭を守りたい」としている。
これは日本人の姿ではない。だから、日本人は不幸になると思う。
今の日本人の幸福は、我々の先祖が「誠」「礼」「恩」で作ってくれたものであることをちゃんとしっかり考えてみてほしい。