We weirdo but it is dope shit
Schoolboy Qの言葉だ。The man named Scottのドキュメンタリーで言っていたこと。
僕はweirdoなのか。うーん。そうでもない気がする。
なんでこう思っているかと思うと、weirdoになることを少し恐れていたから。表面的なweirdoにはなれると思うんだけど、自分の中の本当にweirdoな部分は出すことを恐れていて、社会の普遍に迎合してしまっている。
社会の普遍に合わせ続けるとどう思うかと思うと、合わせるという制約が制約に感じなくなってしまうこと。自分の普遍に感じてしまうのだ。これは怖い。
Everyone is weirdo in a certain way, we just do not know
そんな気がしない?
この感情を助長するScottの言葉がありました。
I am living life the right way, but I still feel empty inside.
自分は正しい方向に人生を歩んでいるはずなのに、中身が詰まってないんだ。
すごい共感した。自分がこれまで生きてきた人生は、社会的に肯定される人生だった気がする。で、社会的に肯定される人生は自分で自分を肯定できる人生だと信じてきて生きてきた。でも、肯定される必要がなくなった時(僕の中では就活が終わった時)、僕は本当にこれで良かったのかという自問自答が発生する。これは辛かった。
多分社会的に良しとされる人生と、自分で良しとする人生に大きな乖離があって、それに気づけなかったんだと思う。
気づけなかった理由は、自分の中のweirdnessを隠して生きてきて、それを隠すことに慣れすぎたからだと思う。
こういうのを打開するためのメンタリティは、ラッパーから学ぼうということで、言葉を収集してみた
全ての物事、やりたいことに他人を納得させる理由っていらないよね。感情ってそんな合理的じゃないもんね。
僕は多分自分がやることを他人に認めてもらいたいという欲が強すぎて、すべてが説明できることが重要。実施する理由が深ければ深いほどいいと思ってきた。だから、理由を作り上げることになぜか時間を使っていたし、納得できる理由を作れなくて(多分実施することを恐れていた部分もある)やめたこともたくさんある。
でも、実際本当にコンクリートな理由って必要なくて、やりたいからやるでいいんだろうなと思った。理由、目的があるから長続きするわけでもないもんね。
かっこいいからやる。なんかやりたいからやる。それでいいんだって思えた。
日本語訳いるか? なんか恥ずいわ
これは、僕の中では結構衝撃的ってか新しい視点を提供してくれた文章だった。
創造する時には「他の意見なんて気にしないぜ!自分が満足するものを作ってやるぜ!」っていうメンタリティが必要だと思った。けど、多分それって本当に強い人しか無理。絶対に「他の人はどう思うだろう」っていう不安は出てくるはずだ。
その感情を受け止めながらも、作るのをやめる理由にはさせない。これは弱い人でも強くなれるなと思った。そう悩んでいる自分を受け止めて、それでも前に進む。そこの前に進む理由もコンクリートな理由はいらない。fuck itだけでいいんだよね。
これは難しい。最初は俺もマジでわかんなかった。
でも、僕はこの言葉に結構救われた。自分なりの解釈をお伝えしたい。
弱くなることっていうのは、ここの中では自分の弱みを解ること、自分の弱みと向き合うこと。この弱みっていうのは自分が窮地に追い込まれた時に出てくる醜い自分とかってこと。そこに向き合うということは、自分の中で最も嫌な自分を認めることにつながる。自分の嫌な部分を認めるって本当に苦しいよね。逃げちゃうもん。
だから、弱みを見せる。弱みを解るってことはとっても強いことなんだ。
弱みなんか見せないとかってのも強いことだとは思うんだけど、見せるのも強さ。
ちょっと自分は強くなれたかな?って自信が持てた一言だった。
最初のタイトルとだいぶ違ったものになっちゃったけど、こういうことを考えて、自分はweirdoでいていいなって最近は思えるようになった。
別に無理してweirdoになる必要はないけど、そのweirdoを隠す必要はないよね。もしかしたら他の人にとって重要な存在になれるかもしれないって思いながら、自分のweirdoを大切にしたいと思います。
なんだこのnote
A man named Scott見たかったら見てみてください。
Kid Cudiのことね
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