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武甲山の歴史、民俗、郷土史

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武甲山の麓先祖代々旧家の生まれ。父から受け継いだ語りも交えて武甲山の歴史や横瀬の郷土史、伝説などを伝えていきます。(担当:なな)in東北
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#秩父

天王祭の花火 焔硝・火薬の製造を専業とする者たちの祭

宇根天王祭は、毎年春に行われるが、横瀬町誌によると6月に行われていたそうだ。その天王祭に…

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【丹党安保氏考②】秋田県鹿角市へ 丹党安保氏の原点を探る

今から6,7年前になると思う。出会いのきっかけは、縄文だった。 「縄文土偶を作る」という…

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秩父聖地説(江戸幕府にとって横瀬郷は関東鎮護の地?)

古来から伝わるという「秩父聖地説」というのがあった。 江戸時代1603年~1655年まで…

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猟師のこと(江戸幕府から唯一許された横瀬郷の鉄砲頭)

江戸城から鉄砲を借りることができ、横瀬郷のみ名前が記されていたこと。 1750年、この年…

祖霊信仰の武甲山

秩父は端山・深山信仰の構図にも当てはまるのだと思う。 「山形精神文化考:千歳 栄氏」より…

武甲山様、武甲山様。と、唱えると・・

武甲山に関する伝説の中、最も注目すべきは蛇・龍にまつわる物語。 「広報よこぜ(昭和年代)…

武甲山の熊野権現社の神職「守屋大隅」という人

根古屋にある牛伏堂とよばれる観音堂にお参りした時に「守屋大隅」の名を知り、その石碑があることから横瀬郷では知られた存在だったらしい。 武甲山の御嶽神社と私の先祖の氏神は代々守屋姓で、信州から来ていると聞いた。 守は「神を守る」意味から「守屋」を名付けていると聞く。 このまるっこい背中の神主さん。 この時の神主さんが最後であったと今は思う。 お天狗さまのお祭りも途絶えた。 牛伏像が置かれた観音堂(十一面観音)は武甲山がよく見える。 御堂は天明2年(1782年)に火災にあ

武甲山信仰③狼煙から塩硝燒きへ 

横瀬町の歴史では、武甲山を蔵王権現の基として猿田彦命を置いたと伝わっている。 かつて武甲…

武甲山信仰②猿田彦命と鮎の国津神

日本列島は、世界一のアユの産地といわれ、流れの速い河川が存在することで日本の自然環境がア…

霊山の武甲山「秩父妙見の農耕儀礼」

「すべては水である。 水こそ万物の始原(アルケーarchē)である」 と言ったのは、タレスとい…

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武甲山の犬神様

武甲山が「犬神様」とよばれていたことを思い出す。 小学生の頃、白いセメントの山肌がいろん…

武甲山の雨乞い岩

■武甲山の雨乞い岩の歌 ♪「武甲山の大前に 雨だんべえ龍王なあ 長の日照りにそのために 五…

太古の記憶 秩父・武甲山のむかし

秩父霊場の武甲山 秩父三山(三峰山、両神山、武甲山) 武甲山のことを「犬神さま」と呼んで…

【歴史】横瀬七郷武甲の山が 俺が稲田を見てござる(古歌)

江戸からみて秩父は西北にあたる。 秩父の霊峰、武甲山、三峰山、両神山は西北にそびえ、 徳川家康は、その方角が聖なる「要」であると捉えていた。 西武線に乗って横瀬町へ入ると大きな武甲山がそびえる。 東(東京)から帰省する時に見える武甲山はとかく目立つ。 トンネルを抜ければ、中世、要塞をおいていた所であり、そこに武甲山が座す。武甲山信仰の始まりだ。 その入口が芦ヶ久保にあたる。 そこに茂林寺があり、古くは、秩父札所巡礼の最初であったそうだ。 懺悔堂、船乗り観音、海の安