第30回 「魂」は実在する!「あの世」も実在する!
日本は仏教国であり日本人は仏教徒である、と長い間我々日本人は認識していました。
しかし、最近その認識が大きく揺らいでいます。自分は無宗教だと自認する人が、老若を問わず増えているのです。
既成の宗教を忌避する傾向は世界的なもので、驚異的なスピードで進化する科学技術の進展に伴い、第二次世界大戦後、特に顕著になりました。
一方で、スピリチュアル(霊的・神秘的)なものに心惹かれる若者が増えている、という調査結果もあります。
既成宗教は何か信用できず胡散臭いと遠ざけるのに、最先端の科学技術でも説明できない何かがあるという、漠然とした恐怖感・畏怖感に心が本能的に反応しているのです。
物が溢れ娯楽が溢れ、金さえあれば何でもできるという享楽的風潮の中で予期せぬ災害や事故が多発し、人為では何ともし難い局面を次々に見聞し、人生の意味、生きることの意味について、深く考え込まざるを得ない状況が生まれています。
仏教を始め、およそ宗教と言われるものは、これらの素朴な人生の疑問に対して、答えや指針を与えるものとして誕生しました。
ところが、長い歴史を経る過程で初心は忘れられ、科学技術万能の風潮の中で、宗教は、非合理な迷信・習俗として、軽んじられ排斥されるようになってしまったのです。
仏教の世界でも、「魂」の存在や「あの世」の存在を疑問視し、否定的な見解を持つ僧侶や仏教学者が増えています。
特に仏教は、最初期に、「我は無い=無我」を信条としてしまったために、釈尊が証得した「悟り」や「教え」が全く理解できなくなっています。
「我(が)」は、パーリ語「アッタン」、サンスクリット語「アートマン」の漢訳で、「魂」を意味します。
それに輪をかけたのが、「無我(むが)」をベースにして作られた様々な経典類の乱立や、釈尊を神格化するため、経典に書き加えられた虚飾の数々です。
プラジュニャーパーラミター(漢訳で般若波羅蜜多)と名付けられた瞑想修行法を成就した修行者だけが証得できる「悟り」や「教え」が体得されることなく、持ち帰った経典類だけを頼りに各国語に翻訳したため、実に珍妙で意味不明な翻訳経典が数多く誕生し、意味が分からないから、逆に、有難い経典として珍重されたのです。
意味がよく分からないから、人から人へ国から国へと伝わっていくにつれ益々分からなくなり、様々な解釈・注釈が併存する、現在の八万四千の法門に至っている。それが、仏教の偽らざる現状ではないかと思います。
本シリーズの第18回から第28回にかけて紹介している「法隆寺貝葉写本」の現代日本語訳は、「般若心経」と称されている文献は、釈尊が、一番弟子であるシャーリプトゥラ(舎利子)に、自らの成道体験の内容を伝授したものであることを明らかにしました。
「法隆寺貝葉写本」を現代日本語に翻訳して明らかになったこと、それは、肉体から分離・離脱する「不可思議なもの」が存在し、分離・離脱した「不可思議なもの」が、「この世」ではない「別の世界」に到達するということです。
肉体から分離・離脱する「不可思議なもの」、「この世」ではない「別の世界」、それを我々は「魂(たましい)」・「あの世(よ)」と呼んでいます。
「魂」は、生きて肉体と固く結びつき一体となっているとき、「心(こころ)」と呼ばれ、死んで肉体から分離・離脱したとき、「霊魂(れいこん)」と呼ばれます。
人間という存在は、遺伝子という設計図を基に物質から作成される肉体に、輪廻転生する「魂」という非物質的なものが合体して造られている、というのが近代科学および釈尊の成道体験から導かれる結論です。
中央演算処理装置(CPU)やハードディスクドライブ(HD)・メモリー・キーボード等の物質的なものから作成されるハードウェアに、ウィンドウズやリナックス等のオペレーションズシステム(OS)という非物質的なソフトウェアを読み込ませて、パソコンが完成しているようなものです。
そして、「魂」が輪廻転生する六道世界(地獄界・餓鬼界・畜生界・人間界・阿修羅界・天界)は苦(=執着)に縛られた世界であり、輪廻の流れから脱却し、永遠の安楽の境地(=ニルヴァーナ)に到ることが「悟り」である、というのが釈尊の教えの基底をなす思想です。
「魂」という非物質的なものの存在は、物質を対象とする現在の科学技術では証明のしようがなく、エビデンス(証拠)提示不能として、ほぼ否定されています。
しかし、危うく一命をとりとめた臨死体験者や、薬物の作用により引き起こされる体外離脱体験者等は、異口同音に、魂が肉体から抜け出して異世界を見たと語っています。
本人たちは間違いなく見たと語っているのですが、その証言のほとんどは、「幻覚を見たのだろう」の一言で、まともに取り扱われていません。
瀕死の瀬戸際に追い込まれるような体験は、容易には再現できるものではありませんが、「幻覚」の一言で否定されているこれらの体外離脱体験を、瞑想修行により、誰でも生きたまま体験できることを実証したのが釈尊です。
釈尊はその修行方法を一番弟子であるシャーリプトゥラ(舎利子)に伝授し、シャーリプトゥラがそれを実践成就し、釈尊に次いで仏陀になったことが最古の仏教経典「スッタニパータ」に書いてあります。
永遠の安楽であるニルヴァーナに達することなく、輪廻転生し続ける魂が死後に到達する世界の中で最も有名なものが、西方極楽浄土です。
阿弥陀如来という仏陀が48の誓願を立てて造り出した夢のような楽園で、「無量寿経」という経典にその世界の様子が詳しく書かれています。
安楽を求める大衆が願望の産物として考え出した虚像に過ぎない、と否定的に捉える人も多いと思います。
しかし、仏典には、修行完成者である如来が造り出す、素晴らしい世界(浄土)が沢山あると説かれています。
人が亡くなる前に、お花畑のようなところに行っていたとか、既に亡くなっている人に会ったとかいうことを話す例が多数報告されています。
私は、それらの証言は全て事実であり、そういう世界は実際に存在すると確信しています。
その根拠を問われるとちょっと答えにくいのですが、若い頃、お花畑のような、「この世」ではない「異世界」が現実に存在していることを間接的に実体験したことがあり、それが私の確信につながっています。
釈尊やシャーリプトゥラ(舎利子)が実践した修行法とは正反対の方法ですが、心身を損なうことなく体外離脱をもたらす手段・方法は、プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多)以外にも存在します。その方法は、密教と呼ばれる、仏教の一体系の中で言及されています。
釈尊は、自らの意志と修行で体外離脱を自在に行い、「この世」と「あの世」の様相・真相を詳細に実地検分・検証し、後世に伝えたことが偉大なのです。
「魂」や「あの世」の存在を科学的・客観的に実証することは、現時点では不可能です。
しかし、人間という存在そのものが、生まれながらに、「魂」や「あの世」の存在を感知・認識する能力を備えていることに、我々は気付く必要があります。
その眠れる能力をアクティブにすることが、修行なのです。
修行の成就は、当然のことながら、簡単なことではありません。
私は、釈尊が完成した諸々の欲望を抑制する修行法は、若い時ではなく、むしろ、老年期に入ってから実行するほうが成就し易いのではないかと思います。
自分自身が老境に入って思うのですが、諸々の欲望は若い時よりはるかに減少し、修行し易くなっていると思うからです。
若い時は、欲望を肯定する密教の教えに沿って修行し、老年期に入ってからは、欲望を否定・抑制する釈尊の教えに沿って修行する。
歴史的に成立した順序とは逆になりますが、高度に発達した現代社会の中で、普通の生活を送りながら仏教を実践するには、この方法がよりベターではないかと思います。
何よりも、「魂」や「あの世」が実在すること、「輪廻」や「転生」が実在することを再確認する。
それが、今求められている最重要の課題ではないでしょうか。
追伸
昨夜、「アンビリバボー」というテレビ番組を見ました。
幼い女の子が、自分が生まれる前のことを母親に話すという内容の番組でしたが、これを見て、ずっと疑問に思っていたことが一つ解消しました。
それは、肉体と魂は、人間誕生のどの時点で合体するのかという疑問です。
母親の胎内である程度人間の体が完成した時点で、魂は合体するのではないかと想像していましたが、それは間違いでした。
女の子の証言を聞くと、魂は、卵子が精子を受精したのとほぼ同時に、合体しているのではないかと推測できました。
恐らく、魂は、遺伝子に書き込まれた情報を一定の手順に従って起動する、「人間誕生アプリ」の役目を果たしているのではないかと思います。
そして、その人生で肉体が経験・体験した全ての情報を、「業(ごう)」として、「魂」に内在するメモリーに記録し、死と共に、再び「あの世」に帰って行く。
それが、解脱に至らない普通の人間が経験する、輪廻転生の真相なのではないでしょうか。