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第10回 玄奘の重大な誤訳・・・「般若波羅蜜多」

 前回(第9回)、般若心経の経文にある「意識界」は、「意界」と翻訳すべきだと書きました。サンスクリット語の原本(写本)を漢語に翻訳した玄奘訳「般若心経」には、他にも見逃せない誤訳が沢山あります。
 今回は、その中の、「般若波羅蜜多」を取り上げます。

 玄奘訳「般若波羅蜜多心経」(略して般若心経)の中心主題である「般若波羅蜜多(はんにゃはらみつた)」は、サンスクリット語の原語を漢字で音写したものであることは、よく知られています。

 「般若波羅蜜多」の元になったサンスクリット原語は、「プラジュニャーパーラミター」です。
 「プラジュニャーパーラミター」を音写したのが「般若波羅蜜多」だと、般若心経を解説・注釈した、どの本にも書いてあります。
 しかし、何か変だと思いませんか?

 確かに、日本人なら、「波羅蜜多(はらみつた)」は「パーラミター」を音写したものだろう、ということは分かります。
 しかし、「般若(はんにゃ)」が「プラジュニャー」を音写したものだという解説・注釈を、信じられますか?
 どう読んでも、「般若」は、「プラジュニャー」とは読めません。
 なのに、日本の仏教界は、当然のように、「般若」は「プラジュニャー」の音写だと納得しているのです。
  
 「般若波羅蜜多」は玄奘による音写ですが、玄奘より250年程前の翻訳者「鳩摩羅什(くまらじゅう)」は、同一個所を「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」と音写しています。
 似ているようですが、ちょっと違います。玄奘訳には、「ター」に対応する「多」が付け加わっています。
 つまり、玄奘は、「プラジュニャーパーラミター」の翻訳に悩み苦しんだのかどうか分かりませんが、結果的に、鳩摩羅什訳をパクって音写しています。
 鳩摩羅什訳「般若波羅蜜」に「多」をくっつけて「般若波羅蜜多」として、「プラジュニャーパーラミター」の音写としたのです。

 主題である「プラジュニャーパーラミター」を漢訳することなく鳩摩羅什の音写をパクったということは、玄奘自身が、般若心経のサンスクリット原文の意味・内容を、正しく理解していなかったことを示唆しています。
 玄奘訳「般若心経」と鳩摩羅什訳「般若心経」を比較してみると、玄奘訳「般若心経」は、ほとんど鳩摩羅什訳「般若心経」のパクリと言っても過言ではありません。
 玄奘は、サンスクリット原文を忠実に翻訳するのではなく、鳩摩羅什が先行して翻訳していたものの大半を、コピー&ペーストしているのです。
 だから、玄奘訳「般若心経」は、サンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」の梵文とは、かけ離れた内容になっています。

 鳩摩羅什訳の「般若波羅蜜」は、パーリ語の「パンニャーパーラミー」を音写したものです。
 一方、玄奘訳「般若波羅蜜多」の「波羅蜜多」の原語は、サンスクリット語の「パーラミター」で、伝統的な仏教教理では「到彼岸」と解釈されています。
 パーリ語の「パーラミー」は、サンスクリット語の「パーラミター」と同じ意味です。
 では、パーリ語の「パンニャー」の意味は?

 「パンニャー」は、日本では「智慧・知識」と訳され、サンスクリット語の「プラジュニャー」も同じ意味だと解釈されています。
 しかし、こう解釈することで、般若心経や他の経典の意味が、非常に分かりづらくなっています。

 私が「法隆寺貝葉写本」の梵文を現代日本語に翻訳し直してみて分かったことは、「法隆寺貝葉写本」には、「プラジュニャーパーラミター」と名付けられた、瞑想修行による体外離脱体験(=悟り体験)のことが書いてある、ということです。
 このことから類推すれば、「パンニャー」は、何かスピリチュアル体験に関係した言葉ではないか、と推測されます。

 そこで、ウィキペディアの「般若」の項を引いてみると、そこには、《全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと》と説明があり、さらに、《アビダルマの注釈書では、般若には次の3種類がある》として、三つの成慧(じょうえ)が記されています。
 その3番目にあるのが、修所成慧(しゅうしょじょうえ)です。

 修所成慧は、次のように説明されています。
 《直接的なスピリチュアル経験から得た知識・知恵。5世紀の上座部仏教注記者ブッダゴーサは、この種の知識は高度な瞑想への没頭(ディヤーナ)から得られるとしている。》

 これらのことから、「パンニャー」は、瞑想修行の結果、体外離脱した「アートマン(我)」が認知する全ての事物・事象、すなわち、瞑想智のことではないか、と私は考えています。

 パーリ語「パンニャーパーラミー」を現代日本語に翻訳するとしたら、「到彼岸瞑想智」が適当ではないかと思います。

 一方、「プラジュニャー」については、私は、「分離・離脱して鋭敏になる」と解釈し、「プラジュニャーパーラミター」を、「(意識・魂が肉体から)分離・離脱して鋭敏になり、彼岸に到る」、と現代日本語訳しています。(拙著「般若心経VSサンスクリット原文」参照)
 さらに、「法隆寺貝葉写本」の後半部で、「プラジュニャーパーラミターは、宗教的瞑想修行法である」と明言されていることから、「プラジュニャーパーラミター」を「到彼岸瞑想行(とうひがんめいそうぎょう)」と名付けて翻訳しています。

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