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第21回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その4

 今回は、「第3段 大世界と微細世界」の現代日本語訳を紹介します。この段は、般若心経で一番有名な「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」の句が含まれている段落です。

 「第3段 大世界と微細世界」のサンスクリット原文は、次の5行です。

iha Zaariputra
ruupaM zuunyataa zuunyataiva ruupaM
ruupaan na pRthak zuunyataa zuunyataayaa na pRthag ruupaM
yad ruupaM saa zuunyataa yaa zuunyataa tad ruupaM
evam eva vedana saMjJaa saMskaara vijJaanaani

 この第3段を、玄奘は、「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。」と漢訳しています。

 玄奘は、第2段の「zuunyaaM」(シューニヤーン)と第3段の「zuunyataa」(シューニヤター)を、同じ「空」(くう)という漢字一字で漢訳していますが、「zuunyaaM」は形容詞、「zuunyataa」は名詞という明確な違いがあります。

 前回(第20回)、「svabhaava zuunyaaM」(スヴァバーヴァ シューニヤーン)を、「自身の(sva)存在形態が(bhaava)実体を欠い ているのを(zuunyaaM)」と、「zuunyaaM」を形容詞的に翻訳しました。
 第3段の「zuunyataa」は、「実体を欠いているもの」あるいは「実体を欠いていること」のように、名詞的に訳す必要があります。

 では、「実体を欠いているもの」あるいは「実体を欠いていること」とは、具体的にどんな事象を指しているのでしょうか?

 第2段では、「それら(=諸世界)自身の存在形態が実体を欠いているのを」と翻訳しました。
 彼岸世界では、諸世界は、実体を欠いた形態で存在している、と説いているのです。

 では、実体とは何でしょうか? それを欠くとは、どういうことでしょうか?
 それを解く鍵は、「華厳経」(けごんきょう)に隠されています。

 詳しい説明は省きますが、「華厳経」では、「実体を伴った世界」を「大世界」(だいせかい)、「実体を欠いた形態で存在している世界」を「微細世界」(びさいせかい)という名称で表現しています。
 この表現を使えば、名詞形の「zuunyataa」(シューニヤター)は、「微細世界」と訳yすことができます。

 一方、「ruupaM」(ルーパン)は、「色」(しき)と漢訳され「形のあるもの」を表しています。
 ここで注意しなければならないのは、5行目に「evam eva vedana saMjJaa saMskaara vijJaanaani」(受想行識亦復如是)とあるように、第3段は、「ruupaM」単独ではなくて、「ruupaM vedana saMjJaa saMskaara vijJaanaani」(色受想行識)と「zuunyataa」(微細世界)との関係を説いているものと捉えるべきです。

 仏教では、「色受想行識」(しきじゅそうぎょうしき)は、(実体)世界を構成する五つの要素と考えられています。
 従って、「ruupaM」を、「色受想行識=(実体)世界」を代表するものとして、「大世界」と訳します。

 第3段では、この「大世界」と「微細世界」がどういう関係にあるのか、が説かれています。


 1行目のサンスクリット原文は「iha Zaariputra」(イハ シャーリプトゥラ)ですが、玄奘は、「Zaariputra」(シャーリプトゥラ=舎利子)だけを漢訳し、「iha」(イハ)は全く漢訳していません。

 中村元・紀野一義氏は、「iha」を、「この世においては」と現代日本語訳し、我々が生存する「此岸世界=こ の世」のことだと解釈しています。

 しかし、「prajJaapaaramitaa」(到彼岸瞑想行)を、肉体から意識(魂)を分離・離脱させる、瞑想修行法のことだと考えると、「iha」は、分離・離脱した意識(魂)が到達する、彼岸世界(=ニルヴァーナ)のことだと推測されるのです。

 「iha」を彼岸世界(=ニルヴァーナ)のことだとすると、1行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 彼岸世界では(iha)、シャーリプトゥラよ(Zaariputra)


 続く2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

ruupaM zuunyataa zuunyataiva ruupaM(ルーパン シューニヤター シューニヤタイヴァ ルーパン )

 玄奘は、この2行目を、全く漢訳していません。

 「ruupaM」(ルーパン)は、それだけでは「色=形のあるもの」という意味ですが、前述したように、代表して「世界=大世界」を表していると考えられるので、2行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 大世界は(ruupaM)、微細世界の形態で存在する(zuunyataa)。微細世界は (zuunyataa)、まさに(eva)、大世界なのである(ruupaM)。


 3行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

ruupaan na pRthak zuunyataa zuunyataayaa na pRthag ruupaM
(ルーパーン ナ プリタック シューニヤター シューニヤターヤー ナ プリタッグ ルーパン)

 この3行目を、玄奘は「色不異空。空不異色。」と漢訳していますが、サンスクリット原文通りに漢訳すれば、「空不異色。色不異空。」となります。

 この3行目は、2行目と同じような意味・内容ですが、サンスクリット原文通りに現代日本語訳すれば、次のようになります。

 微細世界は(zuunyataa)、大世界と(ruupaat)異ならない(na pRthak)。大世界は (ruupaM)、微細世界と(zuunyataayaaH)異ならない(na pRthak)。


 4行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

 yad ruupaM saa zuunyataa yaa zuunyataa tad ruupaM(ヤドゥ ルーパン サー シューニヤター ヤー シューニヤタ.ー タドゥ ルーパン )

 玄奘は、この4行目を、「色即是空。空即是色。」と漢訳しています。

 2行目・3行目の梵文では、「大世界」と「微細世界」は、見かけ(形態)は異なるけれども同じものだ、という意味のことが説かれています。

 この4行目では、英語の「what」に相当する関係代名詞「yad」と「yaa」、「that」に相当 する指示代名詞「saa」と「tad」を使って、 「大世界」と「微細世界」は相互に変化する関係にあることを説いています。

 4行目の現代日本語訳は、次の通りです。

 大世界であるところのもの(yad ruupaM)、それが(saa)、微細世界になる(変化す る)のであり(zuunyataa)、微細世界であるところのもの(yaa zuunyataa)、それが (tat)、大世界になる(変化する)のである(ruupaM)。


 5行目のサンスクリット原文と現代日本語訳は、次の通りです。

 evam eva vedana saMjJaa saMskaara vijJaanaani(エーヴァム エーヴァ ヴェーダナ サンジュニャー サンスカーラ ヴィジュニャー ナーニ )

 受(vedana)・想(saMjJaa)・行(saMskaara)・識(vijJaanaani)も、まさに(eva)、このようにある(evam)。

 第3段の現代日本語訳をまとめると、次のようになります。

彼岸世界では、シャーリプトゥラよ
大世界は、微細世界の形態で存在する。微細世界は、まさに、大世界なのである。
微細世界は、大世界と異ならない。大世界は、微細世界と異ならない。
大世界であるところのもの、それが、微細世界になる(変化する)のであり、微細世 界であるところのもの、それが、大世界になる(変化する)のである。
受・想・行・識も、まさに、このようにある。


 口承で伝えられたこの経文を聞いただけでは、恐らく、「ナンノ コッチャ」と誰も理解できなかったと思います。
 これは、「prajJaapaaramitaa」(到彼岸瞑想行)という瞑想修行法を成就しなければ証得できない、「悟り」の真実なのです。

 しかし、現在では、この「悟りの真実」は、体験しようと思えば簡単に体験することが可能になっています。
 ゴーグルをつけて様々な仮想現実世界を体験するヴァーチャルリアリティー(VR)技術は、彼岸世界(=ニルヴァーナ)における大世界(=各サイト)と微細世界(=微小なアイコン)の関係を、忠実に模倣しているように思うのですが・・・。 

 

 


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