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第1回 「真実は一つ」のはずなのに・・・
釈尊(=お釈迦様)は、最古の仏教経典「スッタニパータ」の第884詩で、「真実は一つであって、第二のものは存在しない」と明言しています。
それが忠実に伝えられていれば、仏教の教えは、聖書やコーランのように、一冊の書物となって伝承されているはずです。
ところが現実には、8万4千の法門と称されるくらい、仏教には多様な教えが混在しています。なぜなのでしょうか?
私は、最近、「般若心経」のサンスクリット原文として有名な「法隆寺貝葉(ばいよう)写本」を、現代日本語に翻訳する試みを完了しました。
その結果、仏教は、釈尊が亡くなった直後から今日に至るまで、主要な教えが間違って伝承されている、と確信するに至りました。間違っているから、8万4千もの法門に膨れ上がっているのです。
「法隆寺貝葉写本」の翻訳過程・翻訳結果は、「般若心経VSサンスクリット原文」と題した、キンドル版電子書籍に詳しく書いてあります。翻訳した私自身が、びっくりするような内容です。
仏教は、釈尊が、菩提樹の下で瞑想修行を成就し、「悟り」を開いたことにより始まった、と伝えられています。
ところが、意外なことに、その「悟り」とは一体どのようなものであったのかということについては、未だに謎のままなのです。
その肝心の「悟り」の正体が不明なまま、思考だけで教えを作り上げていったために、8万4千もの法門が生まれたのではないでしょうか。
このプロジェクトは、といっても今のところ私一人ですが、釈尊の在世時にさかのぼって、実際に釈尊が証得した「悟り」とはどのようなものだったのか、そして、成道後弟子達に説いた「教え」とはなんだったのか、仏教の源流を究明しようとするものです。
決して、衰退しつつある現在の仏教を盛り立てようとか、ヨイショしようとするものではありません。
むしろ逆で、葬式仏教と揶揄(やゆ)されるような現状を打破するために、修復不能のパソコンをリカバリーソフトを使って工場出荷時の状態に戻すように、仏教を初期化しようとするものです。
アプローチの手掛かりは、「般若心経」のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」と、最古の仏教経典である「スッタニパータ」の第5章が、共通のテーマについて書かれているという事実にあります。
私は、両経に説かれている内容を詳しく比較検討してみた結果、「法隆寺貝葉写本」と「スッタニパータの第5章」は、ほぼ同時期に成立している、という結論に達しました。
つまり、「法隆寺貝葉写本」と「スッタニパータ」は、共に釈尊の直説を伝えている、という結論です。
その結論をもとに仏教の源流を探ろうとするものですが、その前に、日頃私が疑問に思っている仏教のあれこれについて、思いつくままに、問題提起することから始めたいと思います。
うやむやにされたり、スルーされたりしていることが、その後の仏教の混迷(?)につながっているのではないかという気がしてならないからです。
私一人では手に余る、大それた挑戦かもしれませんが、同じような問題意識を持っている方は、他にも沢山いらっしゃるのではないでしょうか。
「三人寄れば文殊の知恵」とも言います。
フォローしてくださる皆様の、忌憚のないご意見をお待ちしています。
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電子書籍「般若心経VSサンスクリット原文」に「第7章」追加のお知らせ
2019年2月刊行の、キンドル版電子書籍「般若心経VSサンスクリット原文」に、下記「第7章」を追加しますので、併せてお読みください。
第7章 「スッタニパータ」と「般若心経」
前章(第6章)では、「法隆寺貝葉写本」の原形となるものは、紀元前2~3世紀頃に、パーリ語で書かれていた文献ではないかと推測しました。
又、最初と最後に「礼拝の辞」と「終了宣言」という儀式用文言が付加されているので、「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文は、「到彼岸瞑想行伝授式」という宗教儀式で唱えられる祝詞(のりと)のようなものではないかと推測しました。
さらに、シャーリプトゥラという人名は、伝授式に臨む求道者の代名詞ではないかと推測しました。
しかし、そうだとすると、新たな疑問が湧いてきます。それは、とっくの昔に亡くなっているのに、なぜシャーリプトゥラの名が使われているのかということです。
「智慧第一」と称されていたために、代名詞として使われたのではないかと推測しましたが、よく考えてみれば、「求道者よ」という呼びかけでもよかった筈です。むしろその方が、違和感なくぴったりくると思います。
あえてシャーリプトゥラの名前を使った理由は、何なのでしょうか。
意外に思われるかも知れませんが、その答えは、最古の仏教経典と言われている「スッタニパータ」にありました。
仏教界では、「般若心経」が成立したのは紀元前後か紀元4世紀頃と考えられていて、最古の仏教経典である「スッタニパータ」との関係について論じた書籍は、私が知る限りでは、全くありません。
この章では、前章で打ち出した私の推測・見解をほとんど否定することになりますが、あえて前章を残したまま、「スッタニパータ」から得られた新たな知見に基づいて、仏教の成立過程や「般若心経」の成立過程について再考察してみたいと思います。
尚、「スッタニパータ」はパーリ語で書かれていて、以下に紹介する現代日本語訳は全て、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用します。
スッタニパータ
仏教に関する文献(経典)の中で最も古い、即ち、釈尊の直説(じきせつ)を伝えているのではないか、と考えられているのがスッタニパータ(経集)です。スッタニパータとは、釈尊が説法した教え、即ち、経(スッタ)を集めたもの(ニパータ)という意味です。
釈尊の在世時、それから没後しばらくの間は、釈尊の教えは文字で記録されることはなく、全て口承で伝えられていました。従って、教えの内容は、口承しやすいように、俳句や短歌のように短く完結した文章(韻文)で伝えられていたと考えられています。
しかし、後世、教えの内容が文字に起こされ経典として伝承されるようになると、分かりやすくするためかあるいは釈尊を神格化するためか、序文や説明文等を付け加えて、物語(散文)風にアレンジするようになります。今風に言えば、話を盛ったりするのです。
これで分かりやすくなれば良いのですが、なかには、教えの内容は何なのか、何を言おうとしているのか、さっぱり分からなくなっているケースもあります。
スッタニパータは、元々は独立した経典として流通していたものを集めて、五つの章に分けて編纂(へんさん)されています。そのなかでも第4章と第5章は最も古くに成立していたと考えられていて、第4章「八つの詩句の章」は、「義足経(ぎそくきょう)」という経名で漢訳されています。
「法隆寺貝葉写本」との関係
スッタニパータの第5章は、「彼岸に至る道の章」と名付けられていて、奇(く)しくも、「法隆寺貝葉写本」の中心主題「到彼岸瞑想行」と同じテーマについて書かれています。
第5章「彼岸に至る道の章」は976詩~1149詩から成っていますが、「序」と名付けられた976詩~1031詩は、後世、文字に起こす段階で付加されたと考えられています。
その根拠は、スッタニパータの第4章と第5章に対する注釈書「ニッデーサ(漢訳で義釈)」に、976詩~1031詩の文章(序文)に対する注釈が存在しないことによります。
976詩~1031詩(序文)は、第5章「彼岸に至る道の章」の導入部分に当たりますが、この的外れで不必要な導入部分があるために、第5章で説かれている主題「彼岸に至る道」のポイントが、非常に分かり難くなっています。
第5章で説かれていることは何なのか、「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文の内容と比較検討してみると、「彼岸に至る道」の極意(ごくい)は、1037詩に集約して説かれていることが分かります。1037詩こそが、第5章「彼岸に至る道の章」の主要テーマなのです。
1037詩は、1036詩の質問文に対する釈尊の答えを表していて、非常に重要なので、ここに両方の詩文の根幹部分を抜粋して紹介します。
《1036詩 智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?》
《1037詩 識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる》
パーリ語の原文通りに翻訳してあるのだと思いますが、「馬から落ちて落馬して」のように、文章がちょっと変なような気もします。
しかし、意味するところは、「(五感と意識の)識別作用が滅する時、名称と形態が滅する」ということであり、「法隆寺貝葉写本」の「第6段 到彼岸瞑想行の成就」と同じ意味・内容のことを説いているのです。
中村元氏は、「名称と形態」について、《これはウパニシャッドに説かれている二つの概念であって、現象界の事物の二つの側面を示す》(P394)として、《結局、精神と身体を意味する》(P424)と注釈しています。
しかし私は、648詩で「名称」について次のように説かれているので、「名称と形態」とは、輪廻の流れの中で何度も何度も生まれ変わり死に変わりを繰り返しているアートマン(我)が、それぞれの人生において識別されていた名前と身体(人種・性別・国籍・肌の色等)のことを言っているのではないかと理解しています。
《648詩 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。》
又、スッタニパータをよく読んでみると、第5章以外にも、「法隆寺貝葉写本」の梵文と密接に関係しているのではないか、と思える詩が沢山あります。
詳細な解釈・説明は省きますが、その中のいくつかを引用して紹介します。
《754詩の前文 「物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている」というのが、一つの観察(法)である。「非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている」というのが、第二の観察(法)である。》
《754詩 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。》
《755詩 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。》
《756詩 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、(名称と形態)(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。》
《761詩 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。》
《765詩 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。》
《1094詩 いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、ーーこれが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。》
《1119詩 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、(死の王)は見ることがない。》
釈尊の後継者
「マハパリニッヴァーナスッタンタ(漢訳で大般涅槃経)」という経典は、釈尊が亡くなる直前の、最後の旅路の様子を描いた経典です。
その中に、死期が近いことを悟った釈尊に対して、侍者アーナンダが、「残された自分たちはどうすれば良いのか」と、不安に駆られる場面があります。これに対して釈尊は、次のように答えます。
《「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしに頼っている」とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしに頼っている」とか思うことがない。向上につとめた人は、修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。》と言って、自分の後継者を指名しませんでした。(中村元訳 岩波文庫「ブッダ最後の旅」から引用)
そして、《この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。》という有名な言葉を残したのです。(同上)
ところが、スッタニパータ第3章「大いなる章」には、釈尊が自分の後継者を指名したことが書かれています。そのやりとりである556詩と557詩を、「ブッダのことば」から引用して紹介します。
《556詩 では、誰が、あなたの将軍なのですか?師の相続者である弟子は、誰ですか?あなたがまわされたこの「真理の輪」を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?》
≪557詩 師が答えた。セーラよ、わたしがまわした輪、すなわち無上の「真理の輪」(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは「全き人」につづいて出現した人です。≫
サーリプッタ(舎利弗)は、サンスクリット語ではシャーリプトゥラ(舎利子)と表記され、「法隆寺貝葉写本」の登場人物と同一です。
「全き人(如来)」は釈尊のことを意味しているので、この557詩は、サーリプッタが既に悟りを開いて仏陀の境地に達していて、釈尊の後継者になるということを告げています。
しかし、現実には、サーリプッタは釈尊より前に亡くなっているので、後継者として活動した事実はありません。
にもかかわらず、釈尊の没後かなり年数が経過してから成文化したと推定される、スッタニパータ第3章に556詩と557詩が残されているのはなぜでしょうか。
「真言」部分の解釈
「法隆寺貝葉写本」第9段のgate gate paaragate paarasaMgate bodhiの梵文は、日本では「真言(しんごん)」と呼ばれていて、翻訳するものではないとして漢訳でも原語を音写しています。
前述したように、この文章の解釈に関して、中村元氏は《この真言は文法的には正規のサンスクリットではない。俗語的な用法であって種々に訳し得るが、決定的な訳出は困難である。》と注釈しています。しかし、俗語が何語なのかは示していません。
俗語(プラークリット語)というのは、広大なインドで、一般民衆の間で話されていた方言(口語)のことで、釈尊は、弟子たちにその土地土地の方言で説法するように命じています。パーリ語も俗語の一つです。
文章語(文語)であるサンスクリット語で書かれた「法隆寺貝葉写本」の中に、俗語(口語)表現が混在しているという事実は、奇異な感じがしますがそれだけに重要な意味を持っているのではないかと思います。
私は、この真言の解釈に関しては、「梵語原典で読んでみる」に紹介されている解釈例のうちの1例を参考にして翻訳しました。
そのときは他の解釈例については全く気にも留めなかったのですが、スッタニパータを読んでみて、仏教学者渡辺照宏氏の解釈例が重要な意味を持つことに気付きました。
渡辺照宏氏は、gate gate paaragate paarasaMgate bodhiがマガダ語方言で書かれているとみて、「到れり、到れり、彼岸に到れり、彼岸に到着せり、菩提に」と解釈しているのです。
マガダ語は、釈尊が説法の場で話していた言語と考えられていて、パーリ語と近い関係にある言語だと言われています。
一方、サーリプッタは、マガダ国のバラモン出身だと伝えられています。又、スッタニパータの第4章と第5章に対する注釈書である「ニッデーサ(義釈)」は、サーリプッタの作であると伝承されています。
大胆な仮説
これらのことを総合して考えると、「スッタニパータ」と「法隆寺貝葉写本」の間には密接な関係があり、結論として、次のようなことが言えるのではないかと思います。
1) 少なくとも「スッタニパータ」の第4章と第5章、そして「法隆寺貝葉写本」の主文は、サーリプッタの存命中、ほぼ同時期に成立した。
2) 「スッタニパータ」は、サーリプッタやその一門の弟子たちに、釈尊が直々に説法した教えを集めたもの、即ち、サーリプッタ一門と釈尊との間の問答集である。
3) 釈尊が筆頭弟子であるサーリプッタに授けた「彼岸に至る道」の実践行法が「到彼岸瞑想行」であり、その奥義が「法隆寺貝葉写本」の主文である。
4) サーリプッタ(シャーリプトゥラ)は、「到彼岸瞑想行」を実践成就して、釈尊に続いて仏陀になった人である。
ということは、「法隆寺貝葉写本」に書かれているシャーリプトゥラという人名は、求道者の代名詞ではなく、シャーリプトゥラ本人を表している。
即ち、「法隆寺貝葉写本」の「第2段 プロローグ」から「第9段 エピローグ」までの主文は、釈尊自身がシャーリプトゥラ本人に対して伝授した教えである。
5) 「法隆寺貝葉写本」に書かれている梵文の主文は、元々は、釈尊自身がマガダ語で話したものであり、それが、後世パーリ語に翻訳され、さらにサンスクリット語に翻訳・成文化されたものである。
6) gate gate paaragate paarasaMgate bodhiという真言は、釈尊が伝授した言葉(マガダ語)が、神聖なものとして、そのまま翻訳されずに伝承されたものである。
7) 大乗仏教の中で最も早く成立したとされている「般若経典」は、「法隆寺貝葉写本(=般若心経)」が元になり、後世の弟子たちにより実践し記録された文書が編纂されたものである。
等々です。
又、意外なのですが、「スッタニパータ」には、在家信者に対して浄土世界への往生を説く404詩や地獄への往生を説く660詩~678詩等の、これは大乗仏教(浄土教)の教えではないかと思える記述が随所にあります。
《404詩 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮している在家者は、(死後に)〈みずから光を放つ〉という名の神々のもとに赴く。》
従って、釈尊は、出家修行者に対しては、仏陀になることを目指す求道の教えを、在家信者に対しては、浄土世界への往生を目指す救済(=信仰)の教えを説いていたのではないかと思います。いわゆる小乗仏教と大乗仏教は、釈尊の在世時に、同時にスタートしているのです。
釈尊の教えにより同時にスタートした小乗仏教と大乗仏教は、現在ではまるで異なる宗教のように思われ、最も小乗仏教的な「法隆寺貝葉写本(般若心経)」が大乗仏教の経典として扱われるなど、複雑怪奇な様相を呈しています。
なぜそんな捻(ね)じれた状態になっているのか不思議ですが、根本には、釈尊の成道体験である「到彼岸瞑想行」が正しく追体験されず、口承で伝えられた教えだけを頼りにあれこれ論じたことにその原因があるのではないかと思います。
「スッタニパータ」の精読から思わぬ結果を導いてしまいましたが、釈尊は出家修行者と在家信者に対し異なる教えを説いていたということを前提に、八万四千の法門と言われる現在の仏教を、求道と救済の二つの教えに構成し直すことが最も重要ではないかと思います。