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第29回 「いろは歌」、清むと濁るで大違い!

 「色は匂えど…」で始まる「いろは歌」は、仏教の「無常偈」(むじょうげ)と深い関係があると言われています。ただ、「いろは歌」の読み方については二つの異説があり、歌の意味は確定していません。

 読み方の一つ目は、4行目の「あさきゆめみし」の「し」を、「浅き夢見」と清んで読む読み方、二つ目は、「浅き夢見」と濁って読む読み方です。
 現在では、学校の教科書や辞書・辞典の記述もほとんどが、「浅き夢見じ」と濁って読む読み方が主流になっていて、歌の意味・解釈も、それに準じたものになっています。

 今回、私は、「あさきゆめみし」は「浅き夢見し」と清んで読む読み方が正しいという観点から、歌の意味・解釈について、一石をドボンと投じてみたいと思います。

 以前、JR熊本駅の西隣(現在の新幹線ホームの辺り)に専売公社の工場があり、夜になると、「今日も元気だ たばこうまい」というネオンが煌々と輝いていました。
 ある晩、大阪行きの夜行列車が熊本駅で停車したとき、ひょっと外を見ると、ネオンが、「今日も元気だ たばこうまい」になっていました。「が」の濁点のネオンが消えて、「か」になっていたのです。

 たった一字の濁点が消えただけで、「たばこが旨い」が、「たばこ買うまい」と正反対の意味(宣伝)になっていたのです。

 「いろは歌」は、平仮名47文字を一度も重複させずに作られた、七五調の和歌です。
 平仮名47文字で書かれた原文は、次の通りです。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

 当時の平仮名には清音と濁音の区別がなく、同じ仮名で表し、実際に発声するときに話し分けていたようです。

 後世、漢字が導入され、「いろは歌」を漢字仮名交じりの文に書き換えるとき、問題が起きました。
 清音と濁音のどちらでも読める仮名のうち、一文字だけ解釈が分かれたのです。
 それが、4行目の、「あさきゆめみし」の「し」です。

 清音の「し」と読めば「浅き夢見し」になり、濁音の「じ」と読めば「浅き夢見じ」になり、浅い夢を「見た」「見なかった」、と意味が正反対になります。

 現在では、濁音の「じ」で歌の意味を解釈するのが主流で、清音の「し」での解釈は、ほとんど見なくなりました。
 濁音の「じ」と解釈して漢字仮名交じり文に書き換えたのが、次の「いろは歌」です。

色は匂へど 散りぬるを (いろはにほへと ちりぬるを)
我が世誰ぞ 常ならむ  (わかよたれそ つねならむ)
有為の奥山 今日越えて (うゐのおくやま けふこえて)
浅き夢見じ 酔ひもせず  (あさきゆめみし ゑひもせす)

 この歌の解釈にも色々あるようですが、4行目は、「儚い(浅き)夢を見ることもない、酔うこともない」という意味に解釈されているようです。

 作者が誰かは不明ですが、「いろは歌」は、仏教の根本教義の一つである「無常偈」(むじょうげ)を、和歌の形に読み込んものだと言われています。

 「無常偈」の偈文と読み方は、次の通りです。

 諸行無常 (しょぎょうむじょう)
 是生滅法 (ぜしょうめっぽう)
 生滅滅已 (しょうめつめつい)
 寂滅為楽 (じゃくめついらく)

 「無常偈」は、パーリ語やサンスクリット語で書かれた原文を、漢語に翻訳したものです。

 仏教学者中村元氏の著作には、直接パーリ語やサンスクリット語の原文から読み解いた、現代日本語訳が示されています。
 しかし、同じ原文から翻訳したはずなのに、著作によって微妙に訳文が違っていたりします。
 漢文の「無常偈」からの翻訳に至っては、研究者によって漢文の読み下し文が様々で、どれが正しい読み方・翻訳なのか分からないそうです。

 いくつか翻訳文を読んでみましたが、「無常偈」の後半は、前世時代の釈尊が、自らの身命を投げ捨ててまで知ろうとした偈文なのに、そういう切迫感や重要性があまり感じられない訳文がほとんどでした。

 そこで私は、パーリ語は分からないので、「無常偈」のサンスクリット原文を現代日本語に翻訳してみました。

 「無常偈」のサンスクリット原文は、次の通りです。

anityā bata saMskārā utpāda vyaya dharmiNaH
utpadya hi nirudhyante teSāM vyupazamaH sukham

 漢文の「無常偈」は四行詩の形に表されますが、サンスクリット語の原文は、上記のように二行詩です。
 正式にサンスクリット語を習ったことがないので文法的に不確かな部分もありますが、私は、上記サンスクリット原文を、次のように現代日本語訳しました。

 完璧なものは、実に、不変・恒常ではなく、生じたものは消失するという定めに従う。
 生じることから離れることが、完全な終息・安楽である、と説く。

 「完璧なもの」は「この世の全ての事物・事象」を表し、「生じることから離れること」というのは、輪廻の流れから脱すること、即ち「解脱」を意味します。
 又、「完全な終息・安楽」はニルヴァーナ(涅槃)を意味するので、分かりやすく意訳すると、

 この世の全ての事物・事象は、実に、変化するものであり、生じたものは滅するという定めに従う。
 生死を繰り返す輪廻の流れから解脱することが、ニルヴァーナ(涅槃)に到る道である、と説く。

となります。

 雪山童子としての前世で「無常偈」を聞いた釈尊は、後世、ゴータマ・シッダルタという釈迦族の王子として生まれたとき、「到彼岸瞑想行」を実践修行し、「ニルヴァーナ(完全な終息・安楽)に至る道」を成就して仏陀となったのです。

 「無常偈」を以上のように翻訳・解釈したとき、「いろは歌」に込められた歌の意味はどうなるか?

 「あさきゆめみし」を「浅き夢見」と清音で読み、漢文の「無常偈」と対比し、サンスクリット原文と対照したとき、「いろは歌」の意味は次のようになります。

 色は匂へど 散りぬるを (諸行無常)
 我が世誰ぞ 常ならむ  (是生滅法)
 有為の奥山 今日越えて (生滅滅已)
 浅き夢見 酔ひもせず (寂滅為楽)

 花は盛りと匂い立つものの、いつかは散りゆくものだ。
 権勢を誇る勝者も、誰がいつまでも誇っていられよう。
 盛衰・欲望にまみれたこの世の生死を、今日解脱した。
 酔ってもいないのに、この世にあらざる世界を見た。

 私が思うに、この歌の作者は、「到彼岸瞑想行」の実践修行を成就して、意識(魂)がトリップしてニルヴァーナ(涅槃=彼岸世界)に到った時の体験を、和歌の形で詠んだのではないかと思います。
 「浅き夢見し」とは、いわゆる、「白昼夢を見た」ということを意味しています。

 

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