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第24回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その7

 今回は、「第6段 到彼岸瞑想行の成就」の現代日本語訳を紹介します。
 「到彼岸瞑想行」(とうひがんめいそうぎょう)とは、玄奘が「般若波羅蜜多」(はんにゃはらみった)と漢訳した、サンスクリット語prajJaapaaramitaa(プラジュニャーパーラミター)を現代日本語に翻訳したものです。
 肉体から意識(魂)を分離・離脱させ、彼岸に到達させる瞑想修行法に対して名付けられています。

 「第6段 到彼岸瞑想行の成就」のサンスクリット原文は、次の3行です。

na jJaanaM na praaptitvaM
bodhisatvasya prajJaapaaramitaa azritya viharati cittavaraNa
cittaavaraNa na astivaad atrasto viparyaasa atikraantaH

 この第6段を、玄奘は、「無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離〔一切〕顛倒夢想。」と漢訳しています。
 この漢訳の中に「以無所得故。」とありますが、「以無所得故。」に該当するサンスクリット原文はありません。


 1行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

na jJaanaM na praaptitvaM(ナ ジュニャーナン ナ プラープティトゥヴァン)

 この1行目を、玄奘は、「無智亦無得。」と漢訳しています。

 玄奘訳に限らず、全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」は、この1行目を、前の段(第5段)の文末の文と捉えて翻訳しています。

 しかし、「法隆寺貝葉写本」のサンスクリット原文を詩文形式に構成し直すと、この1行目は、第5段の文末ではなく、第6段のトップに来るべき文章だということが分かります。

 漢訳で「智」と訳されているjJaanaM(ジュニャーナン)は、梵英辞書では、「knowing」や「knowledge」等と訳されています。
 目覚めている人間の脳内でひっきりなしに浮かんでは消え浮かんでは消えしてい る、いわゆる煩悩のことだと思われます。

 一方、漢訳で「得」と訳されているpraaptitvaM(プラープティトゥヴァン)は、praapti(プラープティ)と抽象名詞を形作るtva(トゥヴァ)が結合したものです。
 梵英辞書でpraaptiは「obtained」と訳されているので、praaptitvaM(プラープティトゥヴァン)は、「得られるもの」あるいは「得られること」のような意味になります。
 しかし、これだけでは、何を「得る」のかは不明です。

 私は、jJaanaM(ジュニャーナン=煩悩)と対比する形で書かれているpraaptitvaM(プラープティトゥヴァン)は、前後の文脈から類推して、身体の感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身から脳にもたらされる情報、いわ ゆる五感のことではないかと判断しました。

 即ち、この1行目の梵文は、日本の戦国時代、快川和尚(かいせんおしょう)が猛火に包まれた中で発したとされる有名な言葉、「心頭滅却すれば、火もま た涼し」の、「心頭滅却すれば」と同じ意味のことを述べているのです。

 否定語「na」を「滅却」と翻訳すると、1行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 煩悩が(を)滅却し(na jJaanaM)、五感が(を)滅却すれば(na praaptitvaM)


 2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

bodhisatvasya prajJaapaaramitaa azritya viharati cittavaraNa(ボーディサトゥヴァシャ プラジュニャーパーラミター アシュリトゥヤ ヴィハラティ チッタヴァラナ)

 玄奘は、この2行目を、「菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。」と漢訳しています。
 前述したように、「以無所得故。」に該当するサンスクリット原文は、全く書かれていません。

 この2行目は、東洋を代表する仏教学者中村元氏が導いたサンスクリットテキストと、西洋を代表する仏教学者マックス・ミュラーが導いたサンスクリットテキストとの間にも大きな 違いがあります。

 中村元氏のテキストは、bodhisattvaanaaM prajJaapaaramitaam aazritya viharaty acittaavaraNaHとなっており、マックス・ミュラーのテキストは、bodhi-sattvasya prajJaa paaramitaam aazritya viharati cittaavaraNaHとなっています。

 東洋と西洋を代表する二人の大仏教学者は、他の資料もいろいろ読み込み、サンスクリット語にも堪能であったためにこのようなテキストを導いたのでしょうが、「法隆寺貝葉写本」のサンスクリット原文は、間違いなく、上記の通りに書かれています。

 この2行目の梵文では、動詞viharati(ヴィハラティ)に対する主語が何であるかについての解釈が、翻訳者によって様々に分かれています。
 このように解釈が分かれたのは、恐らく、サンスクリット原文のprajJaapaaramitaa(女性・単数・主格)をprajJaapaaramitaam(女性・単数・対格)に修正したためです。

 サンスクリット原文通りにbodhisattvasya(男性・単数・属格) prajJaapaaramitaa(女性・単数・主格)として翻訳すれば、「求道者(が実践するところ)の到彼岸瞑想行は」という、「到彼岸瞑想行」が主語としての現代日本語訳が導かれます。

 次のazritya(アシュリトゥヤ)は、中村・マックスミュラーの両テキスト共にaazritya(アーシュリトゥヤ)と修正されていて、動詞aazri(アーシュリ)と絶対分詞を形作る語tya(トゥヤ)が結合した単語として翻訳されています。
 中村元氏は、aazriを「to rest or depend upon」の意味にとって、aazrityaを「安んじて」と現代日本語訳しています。

 しかし、「法隆寺貝葉写本」には、間違いなく、azritya(アシュリトゥヤ)と書かれて います。
 azrityaは、語根 zri(シュリ)に否定語 a と絶対分詞を形作る語 tyaが結合した言葉です。
 zri を梵英辞書で調べてみて、いくつか訳語がある中で、この梵文の場合は、「to assist」(助けること、補助すること)が適訳だと判断しました。
 zriに「to assist」という訳語を当てると、azrityaは「補助されることなく」「助けられることなく」という意味になり、「到彼岸瞑想行単独で」ということを強調しています。

 viharati(ヴィハラティ)は、語根 hR(フル)に分離・離脱を意味する接頭辞vi(ヴィ)が結合した言葉で、hRは 「to take away」「to strip off」と訳されるので、viharatiは「(分離して)取り去る」 「剥ぎ取る」という意味になります。

 cittavaraNa(チッタヴァラナ)は、動詞viharatiの目的語になっていて、直訳すれば、「心を覆う ものを」という意味になります。

 中村元氏のテキストは、玄奘訳に合わせて否定語aがついたacittaavaraNaHとなっていて、反対の意味になっています。

 2行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 求道者(が実践するところ)の(bodhisattvasya)到彼岸瞑想行は(prajJaapaaramitaa)、補助されることなく(azritya)、心を(citta)覆うものを(aavaraNam)取り去る(viharati)。


 3行目のサンスクリット原文は、次の通りです。

cittaavaraNa na astivaad atrasto viparyaasa atikraantaH(チッターヴァラナ ナ アスティヴァードゥ アトゥラストー ヴィパルヤーサ アティクラーンタハ)

 玄奘は、この3行目を、「無罣礙故。無有恐怖。遠離〔一切〕顛倒夢想。」と漢訳しています。

 cittaavaraNa na astivaadが「無罣礙故」、atrastoが「無有恐怖」、viparyaasaが「(一切)顛倒夢想」、atikraantaHが「遠離」と漢訳されています。
 そして、ほとんどの「般若心経」関連本が、この玄奘訳を踏襲した解説・注釈をしています。

 私は、この3行目は、到彼岸瞑想行の成就により覆うものが取り去られた求道者の心(=意識・魂)は、その後どうなるのかについて説いているのではないかと考えました。
 そして、最適な訳語の組み合わせを模索した結果、astivaadには「existence」(存在)、viparyaasaには「change」(変化、移行)、atiには「beyond」(超越)、kraantaHには「going」(移動)の訳語の組み合わせが、原文の文意を最もよく表しているのではないかとの結論に達しました。

 ただ一つ、atrasto(アトゥラストー)をどう訳すかは迷いました。

 玄奘訳の「無有恐怖」(むうくふ)に合わせれば、否定語a(ア)と過去受動分詞trasto(トゥラストー)の組み合わせと考えて、「not frightened」(脅えることなく)と訳すべきなのですが、何に脅えるのか文意がはっきりしません。

 一方、atrastoは否定語 a と動詞tras(トゥラス)と過去受動分詞を形作るto(トー)に分解でき、動詞trasには「to hold」(縛り付ける、拘束する)の意味があり、atrastoは「(身体に)拘束されることなく」と訳すことができます。

 前後の文脈との整合性を考えた場合、後者の訳の方が文脈が無理なくつながり文意も明確になるので、私はこちらの翻訳を採用します。

 3行目を直訳すれば、「心を覆うものが存在しない(しなくなる)から、(身体に)拘束されること なく、(心の)超越移動への移行がある。」となります。

 「(心の)超越移動」は現代用語では「トリップ」と表現されるので、「(心の)超越移動への移行がある」は、「(心が)トリップ状態になる」と言い換えることができます。

 ati(アティ)の訳語である「beyond」を英和辞書で調べてみると、名詞形の「the (great) beyond」には、「彼岸」「あの世」「来世」という訳語が紹介されています。

 3行目の現代日本語訳は、次のようになります。

 心を覆うものが(citta aavaraNam)存在しないから(na astitvaat)、(身体に)拘束されることなく(atrastaH)、(心が)トリップ状態になる(viparyaasa atikraantaH)。


 「第6段 到彼岸瞑想行の成就」をまとめると、次のようになります。

 煩悩が(を)滅却し、五感が(を)滅却すれば
 求道者(が実践するところ)の到彼岸瞑想行は、補助されることなく、心を覆うものを取り去る。
 心を覆うものが存在しないから、(身体に)拘束されることなく、(心が)トリップ状態 になる。

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