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第12回 人間、それは、「アートマン(我)」と「肉体」が一体化したもの。
般若心経のサンスクリット原文である「法隆寺貝葉写本」に、「不可思議な動きをする移動可能な意識(魂)」という言葉が出てきます。
私は、これは、「アートマン(我)」のことを表現しているのだと思います。
臨死体験者が語る、死んだように横たわる自分の肉体を、ベッドの上方から観察している、自分自身のことです。
その存在を証明する直接的な手段・方法がないため、現在の医学では、幻覚とか妄想とかの精神障害と見なされています。
しかし、「法隆寺貝葉写本」には、「到彼岸瞑想行」の修行結果として、「アートマン(我)」が肉体から分離・離脱することが、はっきりと書かれているのです。
上記「移動可能な意識(魂)」の、「意識(魂)」のサンスクリット原語は「マナス」です。
梵英辞書には、「マナス」の訳語として、「心・意志・精神・魂・精霊」等が紹介されています。
このシリーズの「第9回 物質的領域と非物質的領域」で言及した、「意界」の「意」の原語も「マナス」です。
実は、「法隆寺貝葉写本」には、「マナス」のほかに、同じような意味の「チッタ」という言葉が出てきます。
「チッタ」は通常「心」と漢訳されますが、梵英辞書には、「マナス」と同じような訳語が紹介されています。
「法隆寺貝葉写本」の全文を読んでみると、「マナス」と「チッタ」は同じものを表しているように思えるのですが、なぜ異なる単語を使っているのか、その意図について考えてみます。
このシリーズ第2回に、「法隆寺貝葉写本」の現代日本語訳全文を掲載していますが、その中から、「マナス」と「チッタ」を含んだ同内容の文章を探すと、
《到彼岸瞑想行では、不可思議な動きをする移動可能な意識(魂)を、必ず、分離・離脱して認知する。》
《求道者(が実践するところ)の到彼岸瞑想行は、補助されることなく、心を覆うものを取り去る 。心を覆うものが存在しないから、(身体に)拘束されることなく、(心が)トリップ状態になる。》
の二つが該当します。
上記二つの文章で、「意識(魂)を分離・離脱」と「(心が)トリップ状態になる」は、内容的には全く同じです。
つまり、「意識(魂)」と「心」は、「アートマン(我)」を別の表現で表していると考えられるのです。
同じものをなぜ別の表現で表したのか、詳細は不明です。
私は、「アートマン(我)」が「肉体」と一体化している時、「心」と呼び、「肉体」から分離・離脱している時、「意識(魂)」と呼んで、使い分けていたのではないかと推測しています。
「肉体」と一体化した「アートマン(魂)」を自由自在に分離・離脱させる技法、それが、釈尊が実践し完成させた、「到彼岸瞑想行(プラジュニャーパーラミター)」と名付けられた修行法ではないかと思います。
具体的な修行法を書き残すことなく釈尊は世を去ってしまったため、どうすれば「アートマン(我)」が体外離脱するのかは、全く秘密のヴェールに包まれています。
しかし、現在行われている禅やマインドフルネス等の修行法とは、得られる結果からして、違うような気がします。