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第23回 「法隆寺貝葉写本」を読み解く・・・その6
今回は、「法隆寺貝葉写本」の「第5段 微細世界モード」の現代日本語訳を紹介します。
この段では、彼岸世界(=ニルヴァーナ)において、大世界(=実体世界)が微細世界の形態(=微細世界モード)をしていることによって、何が言えるのかについて説いています。
「第5段 微細世界モード」のサンスクリット原文は、次の8行です。
tasmaat Chaariputra
zuunyataayaaM
na ruupaM na vedanaa saMjJaa na saMskaaraa na vijJaani
na cakSa zrotra ghraaNa jihvaa kaaya manaamsi
na ruupaM zabda gandha rasa spraSTavya dharmaa
na cakSur dhaatu yaavan na mano dhaatuu
na vidyaa na avidyaa na vidyaa kSayo na avidyaa kSayo yaavan na jaraa maraNaM na jaraa maraNa kSayo
na duHkha samudaya nirodha maarga
玄奘は、この第5段を、「是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。」と漢訳しています。
1行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
tasmaat Chaariputra(タスマートゥ チャーリプトゥラ)
玄奘は、Chaariputra(チャーリプトゥラ=舎利子)を全く漢訳せず、tasmaat(タスマートゥ)だけを、「是故」と漢訳しています。
1行目の現代日本語訳は、次の通りです。
それゆえに(tasmaat)、シャーリプトゥラよ(Zaariputra)
2行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
zuunyataayaaM(シューニヤターヤーン)
玄奘は、これを、「空中」と漢訳しています。
zuunyataayaaM(シューニヤターヤーン)は、zuunyataa(シューニヤター=微細世界)の処格で、「微細世界の形態の時は」、「微細世界の形態においては」、「微細世界の形態であるから」等の意味を表します。
私は、2行目を、次のように現代日本語訳します。
微細世界だから(zuunyataayaaM)
3行目から5行目にかけての梵文は、世界(=実体世界=大世界)を構成する諸要素を、異なる用語(五蘊・六根・六境)を使って「それらが無い」と言っているだけですから、まとめて翻訳します。
3行目~5行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
na ruupaM na vedanaa saMjJaa na saMskaaraa na vijJaani(ナ ルーパン ナ ヴェーダナー サンジュニャー ナ サンスカーラー ナ ヴィジュ ニャーニ)
na cakSa zrotra ghraaNa jihvaa kaaya manaamsi(ナ チャクシャ シュロートゥラ グラーナ ジフヴァー カーヤ マナームシ)
na ruupaM zabda gandha rasa spraSTavya dharmaa(ナ ルーパン シャブダ ガンダ ラサ スプラシュタヴヤ ダルマー)
玄奘は、この三行を、「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。」と漢訳しています。
この三行では、世界が微細世界の形態(=微細世界モード)で存在するときは、大世界(=実体世界)を構成する各要素(五蘊・六根・六境)は、いずれも、存在しないということを説いています。
世界を構成する諸要素は、大世界の形態(=大世界モード)をしているときだけ、存在するということです。
3行目~5行目の現代日本語訳は、次の通りです。
色が(ruupaM)ない(na)。受が(vedanaa)ない(na)。想が(saMjJaa)ない(na)。行が (saMskaaraa)ない(na)。識が(vijJaanaani)ない(na)。
眼(cakSus)・耳(zrotra)・鼻(ghraaNa)・舌(jihvaa)・身(kaaya)・意(manaamsi)がな い(na)。
色(ruupaM)・声(zabda)・香(gandha)・味(rasa)・触(spraSTavya)・法(dharmaaH) がない(na)。
6行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
na cakSur dhaatu yaavan na mano dhaatuu(ナ チャクシュル ダートゥ ヤーヴァン ナ マノー ダートゥー)
玄奘は、この6行目を、「無眼界。乃至無意識界。」と漢訳しています。
この6行目には、大きな問題があります。
というのも、玄奘訳に引きずられるように、全ての漢訳・英訳・邦訳「般若心経」が、mano dhaatuu(マノー ダートゥー)をmano-vijJaana-dhaatuH(マノー ヴィジュニャーナ ダートゥハ)と修正し、「意識界」と翻訳しているのです。
サンスクリット原文通りに訳せば、mano dhaatuu(マノー ダートゥー)は「意界」(いかい)となり、「意識界」(いしきかい)とはなりません。
「意界」が何を意味しているのか分からないから「意識界」と修正したのでしょうが、ここは、原文に忠実に「意界」と訳すべきです。
cakSur dhaatu(チャクシュル ダートゥ)は、眼界(=肉眼で見える領域)、すなわち、物質世界(=この世)を表しています。
yaavan(ヤーバン)は「(何々から何々に)至る」とか「さらに」という意味に訳されます。
6行目を直訳すると、「眼界から意界に至るまで無い。」又は「眼界が無い。さらに意界も無い。」となります。
前半の「眼界が無い。」という文章は、彼岸世界(=ニルヴァーナ)には微細世界しか存在しないのだから、大世界としての物質世界(=この世)は存在しない、ということを意味しています。
では、後半の「さらに意界も無い。」とは、どんな世界が無いと言っているのでしょうか?
仏教では、彼岸世界(=ニルヴァーナ)には、三千大千世界等の無数の世界が存在する、と説いています。物質世界である、「この世」もその一つです。
一方、多くの臨死体験者たちが、肉体から魂が抜け出した後、「非物質から成る世界」に到達したと証言しています。
証言の多くは幻覚を見たのだろうという一言で片付けられていますが、多くの仏典に、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・天界等の「非物質で形成された世界」の記述があります。
「物質で形成された世界」と「非物質で形成された世界」、それらをひっくるめた全体が「意界」の正体なのではないか、と私は判断しています。
後半では、その「意界」の全てが、大世界の形態(=大世界モード)では存在していない、ということを説いています。
6行目の現代日本語訳は、次の通りです。
眼界が(cakSuH dhaatuH)ない(na)。さらに(yaavat)、意界が(manaH dhaatuH)な い(na)。
7行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
na vidyaa na avidyaa na vidyaa kSayo na avidyaa kSayo yaavan na jaraa maraNaM na jaraa maraNa kSayo(ナ ヴィドゥヤー ナ アヴィドゥヤー ナ ヴィドゥヤー クシャヨー ナ アヴィドゥ ヤー クシャヨー ヤーヴァン ナ ジャラー マラナン ナ ジャラー マラナ クシャ ヨー)
この7行目を、玄奘は、「無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。」と漢訳しています。
しかし、na vidyaa(ナ ヴィドゥヤー)とna vidyaa kSayo(ナ ヴィドゥヤー クシャヨー)の二句は、全く漢訳していません。
この二句は、「無明」(na vidyaa)、「無明尽」(na vidyaa kSayo)と漢訳される、非常に重要な句です。
玄奘は、7行目を十二縁起と結び付けて漢訳しているため、十二縁起にない「無明」(na vidyaa)と「無明尽」(na vidyaa kSayo)の二句を、意識的に省略しているのです。
十二縁起とは関係なく原文通りに7行目を翻訳すると、微細世界の形態で存在している諸世界を、6行目とは異なり、「明」(vidyaa=悟りの世界)と「無明」(avidyaa=迷いの世界)に分けて説いていることが分かります。
「明=悟りの世界」は、恐らく、神々や菩薩が住むという「天界=梵天界」のことを言っているのだと思います。
「無明=迷いの世界」は、物質世界である「人間界=この世」や「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界」等の世界のことだと思います。
7行目前半の「na vidyaa na avidyaa na vidyaa kSayo na avidyaa kSayo」(ナ ヴィドゥヤー ナ アヴィドゥヤー ナ ヴィドゥヤー クシャヨー ナ アヴィドゥ ヤー クシャヨー)は、直訳すると、「悟りの世界はない。迷いの世界もない。悟りの世界が消失することはない。迷いの世界が消失することもない。」という意味になります。
大世界の形態をしている「悟りの世界」や「迷いの世界」は無いが、かといって、それらが消失しているわけではない、ということを説いているのです。
後半のyaavan na jaraa maraNaM na jaraa maraNa kSayo(ヤーヴァン ナ ジャラー マラナン ナ ジャラー マラナ クシャ ヨー)を、玄奘は、十二縁起と関連付けて、「乃至無老死。亦無老死尽。」と漢訳しています。
しかし、十二縁起とは関係なく、原文通りに翻訳すれば、na jaraa maraNaM(ナ ジャラー マラナン)は「経時変化は無い」と訳され、na jaraa maraNa kSayo(ナ ジャラー マラナ クシャヨー)は「経時変化の消失は無い」と訳されます。
後半では、微細世界の形態は全く変化しないが、かといって、大世界で何も変化していないことはない(=変化している)、と説いているのです。
梵英辞書から導かれる、7行目の現代日本語訳は、次の通りです。
明(悟りの世界) が(vidyaa)ない(na)。 非明(迷いの世界)が (avidyaa)ない(na)。 明(悟りの世界)が消失することが(vidyaa kSayaH)ない(na)。非明(迷いの世界) が消失することが(avidyaa kSayaH)ない(na)。さらに(yaavat)、経時変化が(jaraa maraNaM)ない(na)。経時変化が消失することが(jaraa maraNa kSayaH)ない (na)。
8行目のサンスクリット原文は、次の通りです。
na duHkha samudaya nirodha maarga(ナ ドゥッカ サムダヤ ニローダ マールガ)
玄奘は、この8行目を、「無苦集滅道」と漢訳しています。
「苦集滅道」は、釈尊が初めての説法の場である「初転法輪」で説いた、「四聖諦=四つの真理」の教えです。
「四聖諦」とは、概説すると、「苦が存在するという真理」、「苦が生ずる原因があるという真理」、「苦は消滅させることができるという真理」、「苦を消滅させる方法(道)があるという真理」の四つの真理のことです。
それらが無い(na)、と全否定しているのです。
2行目で「微細世界だから」(zuunyataayaaM)という限定条件を付けているので、単純に、大世界で修習する「四聖諦=四つの真理」は、毛穴や塵のような微細世界上では修習しようがないという意味にも取れます。
しかし、この解釈では、世界のことについて説いている第5段で、最後の行に、「苦」という関係のない単語が出て来ることに違和感を感じます。
この8行目も、何か「世界」と関係した事柄について説いているのではないか?
そう考えている時、「ローヒタッサ経」という仏教経典で、「苦」と「世界」が同義に捉えられているということを知りました。
「ローヒタッサ経」に従って、duHkha(ドゥッカ)を「世界=大世界」と解釈すると、8行目は次のように翻訳されます。
「大世界が存在するという真理」(duHkha)、「大世界が生じる原因があるという真理」(samudaya)、「大世界は消滅させることができるという真理」(nirodha)、「大世界を消滅させる方法(道)があるという真理」(maargaaH)が無い(na)。
意訳すれば、(微細世界の形態だから)、「大世界は存在しない。大世界が生じることもない。(かといって)、大世界が消滅することはない。大世界を消滅させる方法(道)もない。」という意味になると思うのですが、飛躍しすぎているようでもあり、理解を得られるか自信が持てないので、暫定的に、次のように現代日本語訳します。
苦(=世界)(duHkha)・集(samudaya)・滅(nirodha)・道(maargaaH)がない(na)。
「第5段 微細世界モード」をまとめると、次のようになります。
それゆえに、シャーリプトゥラよ
(諸世界は)微細世界モードだから
色がない。受がない。想がない。行がない。識がない。
眼・耳・鼻・舌・身・意がない。
色・声・香・味・触・法がない。
眼界がない。さらに、意界がない。
明(悟りの世界)がない。非明(迷いの世界)がない。明(悟りの世界)が消失するこ とがない。非明(迷いの世界)が消失することがない。さらに、経時変化がない。経 時変化が消失することがない。
苦(=世界)・集・滅・道がない。