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第34回 釈尊の悟り② 輪廻転生(りんねてんしょう)
釈尊は、プラジュニャーパーラミター(漢訳で般若波羅蜜多)と名付けられた瞑想修行法を実践成就し、仏陀(ぶっだ)の境地に達したことが、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」に書かれています。
釈尊が到達した仏陀の境地のことを、梵我一如(ぼんがいちにょ)と呼んでいます。ブラフマン(梵=彼岸=ニルヴァーナ)とアートマン(我=人間の主体)が、一体(合一)となった境地のことです。成仏(じょうぶつ)とは、この状態のことを指します。
では、人間として生まれたにもかかわらず、生存中に仏陀の境地に達し得なかった人、そんな大多数の人々は、死後どうなるのでしょうか?
それに対する答として釈尊が悟ったのが、輪廻転生(りんねてんしょう)です。
輪廻転生とは、人間の主体であるアートマン(我)は、生存中に解脱(げだつ)して究極の安楽であるニルヴァーナ(涅槃)に達しない限り、六道世界(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天)という閉じたリンク世界の中で永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返す、という思想です。
輪廻転生の思想自体は、釈尊のオリジナルではありません。当時のインド社会を支配していた、バラモン教の主要な教義の一つとしてあったものです。
釈尊は、自らが仏陀となることによって、この思想が真実であることを悟ったのです。
仏典によれば、生存中に解脱して仏陀となったのは、釈尊の前に6人(釈尊を含めて過去七仏と言う)、釈尊の後にサーリプッタ1人(スッタニパータ第557詩)の、合わせて8人だけです。
成仏(じょうぶつ)は歴史的にも極めて稀(まれ)な出来事であり、一般的に、人間は輪廻転生を繰り返す存在だと言っても過言ではありません。
釈尊は、出家修行者に対しては、仏陀となる梵我一如の道を説きましたが、出家が叶わない在俗の信者に対しては、死後に輪廻転生する来世(らいせ)が、現人生よりグレードアップしたものになるよう、救済(信仰)の道を説きました。
救済(信仰)の道は、あくまでも、次善の策だったのです。
とは言っても、成仏できる人間は極めて稀であり、何千年あるいは何万年に一回出現するかしないかという非常に稀な出来事なので、釈尊の死後、救済を目的にした大乗の教え(大乗仏教)が、仏教の主流として東アジア一帯に広まりました。
大乗仏教は釈尊の死後300年後くらいに始まった、とほとんどの仏教書に書いてありますが、釈尊の直説を記録している仏典「スッタニパータ」の所々には、既に、浄土世界への往生(404詩)や地獄世界(667詩~678詩)への往生など、大乗仏教を想起させる数々のことが書いてあります。
輪廻転生は、現人生での解脱を期待できない凡人(ぼんじん)にとって、避けられない運命です。
そこで、迷える凡人は現人生をどう生きるべきなのか、生き方のモデルとして過去七仏が共通して説いたのが、「悪いことをすることなく、善いことをして、自らの心を浄く保ちなさい」という内容の七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)です。
輪廻の流れから解脱できない凡人に対する教えは、このように簡単なものです。今で言う、倫理・道徳的生き方の教えです。
しかし、この簡単な教えでさえも、今日を生きるのに必死な私たちは、クリアーすることができません。
私たちは、今初めて生まれてきて、現人生を送っているのではありません。
様々な時代に、様々な国に、様々な人種として、男としてあるいは女として生まれ、様々な人生を経験してきているのです。
「人間は生まれながらにして、みな平等」だと言われますが、 それは単なる倫理道徳的願望であって、真実は、誰一人として同じ人生を歩むことのない、「全く異なる輪廻転生の歴史・経験を背負って生まれてきている存在」だということを忘れてはなりません。
現在、日本(世界?)の仏教学界では、釈尊は輪廻を説かなかったという説が主流となっているらしいのですが、最古の仏典であるスッタニパータひとつ読んだだけでも、どこからそんな結論が出てくるのか不思議でなりません。
インドから直接仏教が伝わったチベットでは、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの例で明らかなように、人間は輪廻転生する存在だという思想が、連綿と受け継がれています。
中国を経由して仏教が伝わった日本では、どこでどう間違ったのか、何周忌・何回忌のような、およそ輪廻転生を無視するような思想・行事が、宗派を超えた仏教の共通基盤となっています。
人間は輪廻転生する存在だということを、仏教のみならず、人類全体の共通認識にすることが、持続可能で争いのない平和な世界を構築するために、欠かせないことではないかと思います。