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源氏物語 現代語訳 葵その8

 源氏の君はさすがにいつまでもこんな鬱屈とした日々を送るわけにもいかないと、桐壺院の御殿に参上なさいます。御車の用意が出来、供の者たちが集まってまいりました頃、あたかも狙ったかのように時雨が降り注ぎ、枯れ葉を誘う突風がせわしく吹き荒んで、近習たちも妙に心細くなり、しばし乾いていたはずの袖がまたぞろ湿ってしまう羽目になりました。夜になれば、そのまま二条院に向かわれ、お泊まりになられるとの仰せですので、供の者たちもあちらでお待ちする算段だったのでしょう、それぞれが準備を整えて出立しようといたしております、今日を限りにもう来ないというわけでもないのでしょうが、またとなくもの悲しい気分になっております。左大臣も母宮も、今日のそんな様子をご覧になり、悲しみを新たにされておられます。

 源氏の君は母宮宛に御消息をお伝えいたしました。

 院が畏れ多くもご心配くださっておられるとお聞きして、本日お伺いすることにいたしました。ほんのしばらくの外出ですが、我ながら今日までよく生きておられたものよと胸に迫るものがございますので、なまじお目もじせぬ方がよろしかろうと、ご挨拶にも参りませんでした。

そう認められておりましたので、母宮は涙で目が曇ってしまわれるほど気落ちされ、お返事もままなりません。左大臣がすぐさまお越しになりました。堪えきれず感極まられ、お袖を掴まれ離されません。お側で拝見しておりました者達ももらい泣きいたしております。

 源氏の君は、世の無常にさまざまな想いを巡らされ、しとど泣きされておられる左大臣をしみじみと心あるお方だと拝見しつつ、ご自身は気丈に典雅なお姿を保たれておられます。左大臣はしばし言葉をなくされておられましたが絞り出されるように、「歳を重ねますと、それでなくとも些細なことにさえ涙してしまうものですが、ましてやこの度のことにつきましては昼夜を分かたず泣き惑う日々でございます、そんな心を鎮める手立てもございません、外聞も悪い上、脆弱の謗りを免れませんから、院のところへも伺いかねております。何かのついでで結構ですから、その旨申し上げてくださると助かります。老い先短いこの歳で、娘に先立たれる辛さは例えようがありません……。」そう懸命に心を鎮めて仰るご様子は涙を誘います。源氏の君も幾度となく鼻を啜られ、「遅れ先立つといった定めのなさは、世の習いと重々承知はしておりましても、直面して初めて分かる懊悩は筆舌に尽くしがたいものがあります。院におかれましてもご事情を耳にされた暁にはきっとご理解いただけるはずと推察いたします。」と申し上げます。「それでは時雨も止みそうにありませんから、暮れる前にお出掛けください。」と背中を押されました。

 ふとお屋敷内に目を向けられますと、几帳の後ろ、障子の向こうの開け放たれている辺りに、女房たちが三十人ばかり寄り集まって、濃いのや薄いのやの鈍色の装束を身に纏い、いたく心細げにしゅんと潮垂れてているのが見え、なんともやるせないお気持ちになられました。「見捨てられようはずもない人がここにはいらっしゃるのですから、そうであってもついでがおありなら立ち寄ってくださるだろう、などと自分に云い聞かせ慰めているのですが、まるで分かっていない女房などは、今日を限りでこのお屋敷も捨てられた故郷になると決め込み落ち込んで、永遠の別れとなった悲しみより、時たまとはいえ親しくお仕えした年月が跡形もなくなってしまうことを嘆いておりますのは、もっともと云えばもっともです。とうとう最期まで娘とは心を許して打ち解けてはくださいませんでしたが、いつの日かきっと……、とあてにならない望みを抱いておりました……、なんという心細い夕べでございましょう。」とまたしても左大臣が泣き崩れます。「あまりに浅はかな嘆きと云うべきでしょう。確かにかつては自分も、今はよそよそしいけれどもいつかは分かり合える時が来ると呑気に構えておりました、それゆえついご無沙汰してしまうようなこともありましたけれど、今となってはどんな理由があってご無沙汰いたしましょう。そのうちきっと分かっていただけると思います。」そう云い残されて出てゆかれますのを、左大臣はお見送りになられた後、源氏の君のお部屋に入られますと、御しつらえはもとより、使われていらっしゃったかつてのままどこも変わってはおりませんが、どこかしら空蝉を見ているような心地になられるのでした。

 御帳台の前に硯などが散らかっており、手習いされた反古が打ち捨てられておりますのを拾われ、目を細めてご覧になっておられるお姿に、若い女房達の中には悲しみの中に微笑ましさを見た者もいることでしょう。含蓄深い古い文言、唐のものもあれば本朝のものも縦横無尽に書き散らし、草仮名にも漢字にも様々独創的に書き混ぜておられます。「なんと美事な筆遣いよ。」と天を仰ぎつつご覧になられております。これからはこの方を他人と拝見せねばならないのが口惜しくてたまらないのでしょう。『旧き枕故き衾、たれとともにか』と長恨歌の一節があるところには、

亡き人の魂を想うだに悲しさが募る、添い寝した床をいつも離れ難く感じていたから

そしてまた、『霜の花白し』とあるところには、

貴女のいない塵の積もった床に、撫子の露にも似た涙をこぼしながら幾夜寝たことだろう

いつぞや母宮に差し上げた花でしょうか、枯れた撫子が混じっておりました。

 その花を母宮にお見せして、

「今さら悔やんでも仕方がないことはさておき、こんな悲しい事例も世間にないわけではなかろうと思いながら、そもそもこの世の縁がか細くて親を嘆かせるように生まれついたのだろうと、いっそう辛い思いで前世に想いを馳せながら悲しみを紛らしているけれど、日に日に恋しさが募って耐えられなくなってくるのと、あの大将の君がこれからは他人となってしまわれることが、考えても考えても悲しくてならない。ほんの一日か二日お越しにならず、間遠なご訪問となっておりましたことでさえ常々身を切られるほど辛かったのに、これから朝夕の光をなくしてしまったら、どう生き延びてゆけばよいのか……。」そう辺り憚らず号泣されますと、御前にお仕えする古参の女房達までもが云いようのない悲しみに襲われ、次々ともらい泣きしてしまう薄ら寒い夕暮れ時の一景でございました。

 若い女房たちはといえば、そこここに群れ集いながら、自分たち同士で身の上を嘆き合っては、「殿の仰るように、これからは若君のお世話をしてゆけば慰められもするだろうけれど、いかんせんあんなにも幼な過ぎる忘れ形見でいらっしゃっては……。」と云ったり、「一端退がって、また参るといたしましょう。」と云う者もいたりで、お互いに別れを惜しみつつ、各々胸に去来するものも多いようです。

 桐壺院の御許にお伺いいたしますと、すっかりげっそりと窶れてしまったね、長い精進の日々だったからか……、と深く憂慮され、御前にて食事などをお勧めになり、なにくれと細々お気遣いくだされるご様子は、まことに痛々しく畏れ多いことでございました。

 続いて藤壺中宮のところにお邪魔いたしますと、女房たちが珍しがりお姿を仰ぎ見ます。取り次ぎの命婦の君を通じて、「悲しみは尽きないかと思いますが、日が経つにつれますます……。」と御見舞いのお言葉がありました。「この世の無常につきましてはおおむね理解したつもりでおりましたが、いざ目の前でつぶさに見る羽目になりますと、世を厭うことも多く散々悩みに悩みましたけれども、度々頂戴いたしました御見舞いに励まされ、どうにか今日まで……。」そう仰られ、それでなくともこのお方に寄せられる並々ならぬ想いと相まって、いたく気を揉まれておられます。模様なしの袍に鈍色の下襲をお召しになり、纓を内側に巻き上げておられる喪服姿は、華やかな御装束を纏われるよりも遥かになまめかしさが増しておられます。その後、東宮に伺われ、しばらくご無沙汰いたしておりましたお詫び等を申し上げ、夜が更けた頃に退出なさいました。

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