修了考査の存在意義(#004)
こんにちは。はっしです。
修了考査の試験休暇の真っ最中である。
正直、厳しい戦いではあるものの、一定の手応えを感じながら日々過ごしている。
何より、この試験休暇中は非常に規則正しい生活が送れており、身体のキレもすこぶる良い。なんと言っても、夜の23時までボロボロになりながら働かなくて済んでいるわけである。こんな調子では、試験休暇明けには文字通り討ち死にするのではないかとさえ思っている今日この頃だ。
そこでふと思ったのである。
「業界にとって、これだけの試験休暇を与える価値が修了考査にあるのだろうか?」
昨年の修了考査の受験者数はだいたい2,000人くらいであった。私の周りを見渡す限り、どうやら試験休暇は4週間(=20営業日)がマジョリティのようである(本筋からは完全に外れるが、法人によって取得可能な試験有給日数は異なる。就活の時には気づくことのできなかった本質情報である(?))。
つまり、すごくざっくり計算すると、2,000人×20営業日×7h=280,000h程度が毎年この修了考査単体につぎ込まれていることになる。これは膨大と言わざるを得ない。しかも、業務にもかなり慣れてきて後輩も何人も持つようになる3年目という貴重なリソースを突っ込んでいるのだ。
それだけの余裕がある業界であるという証左であるとも解釈できるが、このレベルの時間を業界としてペーパーテストのために使わせているというのはやはり狂気の沙汰である。
そういえば、修了考査の目的って…?
こうなってくると、修了考査の目的が何だったか、気になってくるというものだ。
JICPAより公表されている「令和5年度修了考査出題趣旨」によると、
「修了考査は、実務補習の内容全体について適切な理解がなされているかどうかを確認するとともに、公認会計士としての実務的な専門能力と適格性の確認を目的とし、筆記の方法で試験を実施するものである。」
との記載がある。
なるほど、修了考査は公認会計士としての実務的な専門能力と適格性の確認を目的としているらしい。現状のペーパーテスト形式の出題がそれを果たせているかは疑問ではあるが、まあ、JICPAは上記のように考えているようである。
少し話が逸れるが、先日友人が「修了考査は架空の有価証券報告書とそれに対する検討調書を与えて開示チェックさせて、ミスを見つけた数で上位70%の人らが合格でええやろ」と言っていて、確かにそれはそうと思うなどしていた。
大いなる疑問
ここまで見てきて、一つの大いなる疑問が思い浮かぶことだろう。
「実務的な専門能力を測る試験で、会計基準に代表される"実務で用いる資料"を使えないのはなんで?」
そうなのである。論文式試験ですら配布される法令基準集が修了考査ではなぜか持ち込み不可なのである。これはもうさっぱりわからなかった。
だって、実務ではすぐに調べるじゃん。
それなのに実務的な専門能力を図る試験で持ち込み不可なのはいったいどういうことなのか…?
修了考査のたった一つの存在意義
黙ってお勉強をしていれば良いのに、こういうことが気になり始めると途端にイライラしてしまうのが人間の性である。そこで、悶々と考え、友人と話すなどして、ある一つの仮説が持ち上がった。
「"実務で用いる資料"を用いさせないのが目的なのではないか?」
つまり、こういうことだ。
実は、修了考査の試験中というのは、これから増えるであろう、公認会計士としてクライアントと対峙する際と似ているのではないだろうか。
例えば、経理部長とディスカッションしている時に、急に思いもよらない質問や指摘が飛んできたり、MTGの主題とは全く別の論点の議論が始まることは当然に想定されるだろう。
この時、「えーっと、ちょっと待ってくださいね、今ググってますので…」などと言えるだろうか。おそらくそういうわけにはいかない。
この際に求められる返答は"大きくは外さない、ある程度の精度の回答"なのである。現場では、そのコミュニケーションの後に実際に基準にあたってみるなどして、必要に応じて電話やメールでフォローするというような流れになるだろう。
要するに、どのような論点であっても「ひとまずその場のお茶を濁せる」レベルの回答をサラッと言えるようになる訓練を今我々はさせられているのではないだろうか。
(もちろん、ドンピシャの回答が出来ればそれが良いだろうが、現実にはなかなか難しいこともある。)
こう考えると、修了考査において「空欄を作らないこと」や「ヤマを張ってはいけない」などの言説がしきりに強調されるのも非常に合点がいく。
修了考査において「空欄を作ること」「ヤマを張ること」は、現場では「沈黙すること」「答えられない分野を増やすこと」と同義だからだ。
そんな奴はクビである。
要するに…
色々とこねくり回してしまったが、まあさっさと受かるべき試験であるというのが結論である。
こんなところで足踏みをしている暇はないからだ。
また明日からも一歩一歩頑張ってみようと思う。
では、また。