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中二病が治らないので美しく生きたい

結局のところ、結論を言えば私はただ美しく生きたいんだ。こんなことを書くのは恥ずかしいし中二っぽいと思うけど色々考えた結果そのことに気づいた。
でもこの「美しく生きたい」という怨念が、私を苦しめている。それもわかってる。これまでも何度も苦しめられてきたし恐らく何度も殺されそうにもなった。

自分より大変な環境に置かれているのに頑張っている人を見ると辛くなった。そして同時に自分を責めた。あの子は私より大変そうなのに私より頑張っている。なのにどうして私はあの子ができることが出来ない?それは努力が足りないから?高校時代不登校になった時、同じ相談室登校の子が頑張って授業に出ているのを見てそう思った。
小中学校のときもそうだった。私と同じ喘息なのにあの子は持久走に参加している。なのに私はできない。それもきっと私の根性がない、心が弱いからなのだろう。
精神的な疾患で働かなくなった時も、自分よりたくさん服薬しているのに働いている人を見て自分は駄目だと思った。甘えてると思った。楽していると思った。
とにかくいつも、私は私のことが許せなかった。「人は努力し続けるべきだ」「楽してはいけない」「何事にも一生懸命取り組まなければならない」これらは別に親に言われた言葉でも教師に言われた言葉でもない。誰に言われた訳でもなくこれらは私の信条だった。どうしてそう考えるようになったのかは今ではもう分からない。思い出せないくらい幼い頃からそう考えていたのか、それとも生まれ持った性質なのか。
このような私の「信条」は、止めるべきだと心を病んだ時に言われた。何度も言われたし、私の周りの支えてくれた人たちは私を諭してくれた。ここでは書ききれないほど、何年も何年もこの「信条」との戦いは続いた。何なら今でも続いている。でも中々、どうしても私はこの「信条」を手放せなかった。何故なのか。それは恐らく私の「美学」だったからだ。私はどうしても、自分の「美学」を譲れなかった。どんなにボロボロになっても捨てることができなかった。そしてそんな必死でギリギリで生きてる自分に「美しさ」を見出していた。完全に自己陶酔だと思う。

「美しくありたい」なんて恥ずかしくて誰にも言えない。でも誰だって綺麗なものが好きな筈だ。自分の「美学」を手放せた時、私はとても楽になれると思う。でもその時、「私」は「私」ではなくなっているかもしれない。

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