人生の盲点

20世紀最大の哲学者の一人といわれるハイデッガーは、人間を死に至る存在と既定しましたが、ほとんどの人が忘れていると言っています。

死という現実を目の当たりにしている人は、人間にとって生まれたものが死なねばならないということはいかに大変かということが分かります。
だから仏教では一大事、生死の一大事とか後生の一大事といいます。

生まれたものが死ぬというのは、これ以上の一大事はありません。
これと比べたらほかのことは大したことはありません。

儲かった損した、だまされた、というのも大変な問題ですが、
今晩死んでいかねばならないとなったら、そんなのどうでもよくなります。

それより死にたくない。もう、それしか問題にならない。
例えば今、俺の土地を売ろうと思っていたのに、
買うといっていた人が値段を下げてきた。
ハンコもらった。土地の争いで喧嘩しています。

そんなときに、あなた末期ガンです……長くて1週間、と言われたらどうでしょう。
あと1週間で死ぬとなったら、土地の争いでぎゃあぎゃあしてたのどうてもよくなります。
お金を手に入れたって使う時がありません。
一億もらうはずが8千万しかもらえなかった、もっとよこせ、と言っても、使えません。
死というものを目の前にしたときに、一大事だと思う一大事と、
命があるという前提で大変だといっているのは、全然次元が違います。

だから昔から仏教では、この生死の一大事と比べたら、この世どんな問題も、大した問題ではありません。生死の一大事と比べたら小事だといわれます。

ところが小事とは思えないから、勝った負けた取られた、儲かった損した、といって、そんなことばかり一大事と思っていますが、死を目の前にしたら、生きている前提のいろいろのでき事は小事になります。

大問題になるのは、死んでいかねばならない、
いま死んだらどうなるんだろう、暗い後生が問題になります。
必ず死ぬのに、どう生きるかという生きる手段ばかり考えて、なんのために生きるかを知らなければ、生きる意味が分からないのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?