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私と彼のこと(58)-正しさから楽しさへ-

完璧主義や原理主義

私は彼の育ちに最善を尽くしたいと願ってはいるが、完璧主義や原理主義に陥らぬよう気を付けてもいる。
私がそもそもズボラで粗忽者なのが最大の理由だが、20年間保育に携わった身として、育児に正しさを求めすぎない方がよいと確信してもいる。

不適切保育の実態調査

先日、厚労省が保育所等における不適切保育の実態調査に乗り出すとのニュースを読んだ。
調査の結果、実効性のある抑止策が立案できるのかどうか、そこには不安もあるが、改善への一歩としては評価した。

保育の質の確保・向上に関する検討会

一方で、保育所等における保育の質の確保・向上に関する検討会の『議論のとりまとめ【概要】』では冒頭で次のように述べられている。

保育の質は、子どもが得られる経験の豊かさと、それを支える保育の実践や人的・物的環境など、多層的で多様な要素により成り立つ。
(保育の質を捉えるに当たり、・「子どもにとってどうか」という視点を基本とする・一定の水準で保障すべき質と実践の中で意味や可能性を追求していく質の両面がある・様々な文脈や関係性を考慮することに留意)

さらに本文には次のような記述がある。

保育所保育は、乳幼児期の発達の特性に即して、「環境を通して行う」ことなど様々な特徴を有している。こうした特徴は、保育士等の子どもの理解や育ちの見通し、さらにそれに基づく様々な意図や配慮といったことを、他者が保育実践のある一場面のみを見て明確に捉えることの難しさにもつながっている。

これは「保育の過程や子どもの育ちの言語化・可視化」という見出しに続く記述なので、保育記録とその活用の重要性について述べられていると捉えるべきだが、家庭での育児においても、ある一つの関わりだけを取り上げて、それが適切か否かの判断など下しようがない、と考えることができる。

否、明らかに不適切な養育は判断できる。
しかし、ある関わりが「正しい」とする妥当性は、複数の俯瞰した視点と、ある程度継続した観察によってしか、高めることはできないだろう。

正しさから楽しさへ

ここ数年、私は自園の保育に関するテーマの一つとして「正しさから楽しさへ」を掲げている。
もちろん、この「楽しさ」は保育者側の自己満足を指しているのではない。
子どもたちを退屈させないように、保育者主導のイベントを連続させるような保育を許容しようというのでもない。
一人ひとりの子どもが、身の回りの環境に興味を持ち、探求したり、挑戦したり、表現することを保障し、それらの過程に保育者も興味を持ち、環境を再構成したり、アイディアとアイディアをつないでいくことを保障できるようなマネジメントを心がけたいという意味だ。

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家庭でも楽しみたい

我が家における彼の育ちを支える関わりにも、同じようなイメージを抱いている。
彼がこれから、身の回りの環境に興味を持って探索していく中で、彼の両親(長男AとRさん)が安心感を持って、その活動を保障できるように、私は二人をサポートしたい。
そしてもちろん、私自身も彼との関わりを心から楽しみたい。
そこには、完璧主義や原理主義は邪魔にしかならないのだ。

もちろん、明らかに不適切な関わりは徹底的に排除する。
そのためには、学び続けることも必要だ。
育児の常識は年々アップデートされている。
古い常識や、個人的な経験則に頼り過ぎないよう注意せねばならない。

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