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私と彼のこと(89)-塩川豊子さん⑤-

一番最初に個人の子育てと集団保育、ということですけれども、これは、私は去年はそのことをかなり丁寧にお話ししたんですけれども、1933年、昭和8年に、一番目の男の子を産みましてから、丁度15年間に6人の子どもを持ちました。
今、みなさん顔を見合せていらっしゃるけど、昔はね、ごくあたりまえのことだったんですね。
その間、丁度満州事変に始まる、大変暗い暗い15年戦争の中を、私は子育てに明け暮れていたわけです。5人目の子どもは、引き揚げの船の中で亡くしたものですから、その赤ちゃんのことが忘れられなくて今の仕事につきました。それまではごく平凡な主婦でございました。
それで、引揚げて参りましてから6人目の子どもを持ったんですけれども、6人目の子どもは、終戦の年、満州で産まれまして、翌年、帰る船の中で亡くなりましたから、籍がないんです。それで、実際は6人目だけれども、戸籍上は5人目ということです。その子育て、私の個人的な子育てが、今の私の幼児教育とつながることが多いのですが、6人とも赤ちゃんの時はとてもきげんがよくて可愛かったんです。
ところが、最近は度々、これはおかしい、赤ちゃんてこんなはずじゃなかったんじゃないかって思うことがありまして、そのために集団で保育しなければ赤ちゃんて、守られなくなってきているのかなということを、感じるようになりました。
私はこの地区でも、それから静岡県内でも乳児保育は草分けで、25年くらい前に0才1才の保育を始めたんですけれども、その頃厚生省の定員というのは、赤ちゃん10人に保母1人でした。今でも6人に一人で六ツ子を育てているようなものですから保育所の保母さんていうのは、とても大変なんですけれども、その当時は、23~4人乳児がおりまして、保母は2人だったんです。だから、すわっているヒマなんてほとんどなくって一日中動き回っていたんです。
その頃どうして、そんな大変な乳児保育ができたのかといいますと、とても赤ちゃんてかわいかったんです。かわいくて、かわいくて、知らない間に日が過ぎるというような時期だったんですね。
ところが今は、私どもの所でも4人半に1人の保母がおりますけれども、とてもたいへんなので今の赤ちゃんがかわいくないというわけではないんですけれども、かなり社会情勢とか環境が変っているんで、とても個人で考えられる問題ではないように思います。
(私の大地保育/塩川豊子/大地教育出版)
※【楽しい乳児保育/一、個人の子育てと集団保育】から抜粋。
※版権者の許可を得て引用しています。

塩川豊子さん(彼の高祖母)が1984年に行った講演の記録からの抜粋。
戦後の最低基準の変遷がわかる。
またこの時期、それ以前の20~30年間に比べて、機嫌が良くて可愛らしい赤ちゃんが減ったと、豊子さんや周囲の保育者が感じていたことが判る。
高度成長期・第二次ベビーブーム・早期教育の隆盛などのキーワードが連想される。

豊子さんが言う「機嫌のいい赤ちゃん」は、もちろん四六時中ニコニコしていて感情の起伏が少ない子どものことではない。
素直に喜怒哀楽を表現しつつも、適切な愛着関係が構築された身近な大人に支えられて、その子なりに気持ちを立て直すことができる子どものことだ。

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幸いなことに、彼は今のところ、機嫌のいい赤ちゃんそのものだ。
大きな声で泣くし、コロコロと笑う。
長男AとRさん(彼の両親)が基本的に穏やかな性格で、辛抱強く彼と関わっているからだろう。
私もそれを助けていきたい。

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