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矛盾ばかりのオリンピックとは!? たかがスポーツ、されどスポーツ。そしてビジョンのマーケットプレース、学びの場
2020年の東京オリンピック大会が2021年夏に開催され、終わりに近づいてきている。新型コロナ肺炎感染拡大防止の観点から、オリンピック史上初の1年延期となり、そして無観客で何とか開催となった。開催前から国立競技場設計撤回問題、エンブレム盗作問題、問題発言による組織委員会会長辞任問題、そして開会式運営のごたごたなど、様々な問題も噴出。そもそも、今オリンピックってやる意味があるのか?どんなビジョンがあるのか?
オリンピックとは何か?という問題について考えてみる。
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参加することに意義がある。でもメダルも取りたい?
我々の世代は、「オリンピックは参加することに意義がある」と習った。当時は学校で「オリンピックとは何か」をきちんと教えたり、議論したりしていたと記憶している。きちんとした教科書に基づく内容ではなかったかも知れないが、こういう言葉が頭に残っている。だから、206カ国と地域からの参加があるということについての素晴らしさは理解している。でも、テレビを見ていると、やはりメダルが何個だったとか、と言うことが話題になる。予選で破れた多くの選手はメディアで取り上げられすらしないこともある。これを大いなる矛盾と呼ぶ人もいる。
でも考えてみると、この矛盾は我々が誰も持っている、当たり前の矛盾ではないか。参加することに意義があるけれど、そこにはやはり1位になることの不屈の挑戦や努力をする選手へのレスペクトがあるからこそだ。だからこそやはり参加に意義があるのではないか。
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オリンピックは世界の祭典。自国選手だけを応援するのは矛盾している?
これも同様の矛盾。世界中の選手が出ているのに、なぜ自国選手をヒイキにするのか。日本国内での高校野球を考えてみればよくわかる。人間とは、何らかの形で縁のあった国や地域を応援し、その選手やチームが活躍すると、自分までがなぜか誇らしい気持ちになると言う社会性を持ち合わせている。アフリカ系の選手が多く活躍する競技では、東洋系の選手が活躍すると他国出身でも応援したくなる。でも、それは世界中の地域や民族の選手が集まって同じ土俵で競うというと言うことが出来てこその話だ。世界平和と、自国びいきは、矛盾しているが、実はそれが共存するのが人間性ではないか。
小学校や町のお祭りに万国旗が飾られるのは、前回の東京オリンピックや大阪万博の名残だと思う。世界にこれほどまで違った旗を持つ国々が存在することや、それぞれの国の名前と旗、そして選手たちの顔を見せて行進するようなショウケースの面白さ、これが子供心に大きな影響を残すというのも分かるように思う。
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商業主義とオリンピズムも矛盾のひとつ?
オリンピックがアマチュアリズム原理主義と手を切り、1984年から公式スポンサー制度を設け、1988年からTOPパートナー方式を開始したのは有名な話。それまでの1980年以前は主に、国や開催都市が税金や寄附金で開催費用を負担していた。つまり住民の負担の上で開催していたということになる。そしてその前提として、近代オリンピックがヨーロッパで始まった頃は、その運営にかかわる人々は主に貴族や富裕層のような社会身分からの出身であった。貴族による運営や、国や自治体による運営は、歴史の流れとともにあらためられてきた。そして国威発揚や特定の政治家やイデオロギー発信の場となるオリンピックも、苦い経験として残っている(1936年ベルリン大会、1980年モスクワ大会など)。
しかし民間企業がオリンピック大会を自社の宣伝に活用するような事態もふさわしくないとして、オリンピックではTOPパートナーや大会パートナー(ローカルスポンサー)のブランドロゴは、一部の例外を除いて掲示されない。FIFAワールドカップや、世界陸上、世界水泳、ラグビーワールドカップなどの大会と比較しても、この「クリーン・ベニュー政策(Clean venue)」の厳格さは際立っている。
とはいえ、オリンピックの運営にはたくさんのお金と人々の努力が必要である。そのためにも、政府にまかせず頼らず、運営を実現するある種の独立性を担保したしくみが必要だった。現在TOPパートナーである企業は、ロゴが掲示されないことを理解した上でも、この活動に長期視点での意義があると理解して参加している企業の集まりである。
より高い目標に努力することや、たくさんの国や地域からのより多くの人々が参加し、スポーツや文化を讃えることにより世界平和を「民間で」実現しようと言う活動がこの「オリンピズム」である。それを具現化する大会(日本語での「オリンピック」、正式には「オリンピック競技大会」)を定期的に開催することで、毎回過去の大会を振り返り、反省し、改善し、そして新しい取組みに進化させると言うしくみにしている。
そもそも人間とは、矛盾に満ちた存在。でも素晴らしい
人間とは、矛盾に満ちた存在。欲があり、自分の出身地域や民族をヒイキにし、自分より遠い存在を「敵」とみなし、闘う傾向がある存在。同時に、誰にでも親がいてコーチがいて、努力をし達成もし失敗もし、その結果として褒められると言う経験を共有すると言う仲間がいるということを理解する存在でもある。
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そんな矛盾をはらんだ人間が運営するのだから、オリンピックが人間性の矛盾を際立たせてしまうのもストーリーの一部。欲にからんだ不正や、ルールを破ってボロを出す人間、オリンピックの理想に全く合わない発言をして退場を求められる人間も多い。政治の世界では「退場」がなくても、オリンピックの世界では「退場」も宣告出来る。なんといっても、オリンピックの流儀は、「たかがスポーツ、されどスポーツ」。その「たかが、されど」にまみれた人間性を讃えて祝うのがオリンピック。そしてそれがオリンピックの「ビジョン」である。
ちなみに、私がオリンピック大会の中で二番目に好きなシーンは、それぞれの思いを持って入ってくる開会式の行進シーン。国の旗を自身なさげに掲げたり、自国の名を誇らしげに見せようとしたり、興味なさそうに歩いたり、選手それぞれ。一番好きなシーンは、閉会式で国ごとではなくどこの選手も入り乱れて入ってくるシーン。ここでは、ほぼ全選手が自信を持って楽しそうに入ってくる。どんな有名なスポーツの選手でもマイナースポーツの選手でも、関係ない。「たかが、されど」を実感する瞬間。本当は、オリンピックでなくても、世界中がこういう感じであって欲しいと思う瞬間だ。
ビジョンのマーケットプレースとしてのオリンピック。つまり「学びの場」
運営には様々な問題があったが、やっぱり自分の出身国の子供たち、いや、世界中の子供たちに見て欲しいと思うオリンピック。子供たちに見せたいと思う社会をつくる、というのが「ビジョン」であり、そのために世界からたくさんの人々が集まり、「ビジョンのマーケットプレース」が行われているのが、オリンピックと言う場ではないか。我々はここから何が学べるのか?が問われていると思う。
最後に、2000年のシドニー五輪前後にIOCが製作していたオリンピック・キャンペーン映像「Celebrate Humanity」(人間性を祝おう)を紹介したい。
そして、これからもイノベーションが必要なオリンピック。現在のIOCの面々にも、そしてこれから行われる北京、パリ、ミラノ、ロサンゼルス、ブリスベンなどの将来の大会を担当する組織委員会の人々にも、今日的な意義を見出して欲しいと願うばかりである。
これからたった4年後、2025年の夏に行われる大きな国際イベントである「大阪・関西万博」に携わる方々にはもちろん、言わずもがなである。