レジにもっと多様性があったっていいじゃん 〜都市の懐の深さ〜

世の中、とくに日本、本当に忙しないなあと感じます。

2年前ベトナムに行き、路上で好き勝手立ち止まって話したり座り込んでものを食べたりしている様子を見て、その町の懐の深さというか自由さに感動した覚えがあります。

日本の都市はなかなかそういう隙間がありませんよね。そもそも人口が過密すぎて不可能だとも言えるし、たむろってる人達は無条件にガラが悪く見えてしまったりする。キャッチのお兄さん以外で立ち止まったりしてると邪魔だし不審だし、そもそも自分の居心地が悪かったりもします。

河川敷や公園などの公共の場所において「一定時間同じ場所に留まること(占有)」が使用条件の線引きとされていることも遠からずな問題に思えます。

私たちは日本の都市の中で壁のない場所に留まることが非常に難しいようです。そもそも室内に留まるときだって大体はお金を払わなければいけませんし、そうでない場所でも行動が制限されがちです。たとえば図書館は本を読んでいるうちは良いですが、高校生の自習などは厳しく取り締まるようなところも多いですよね。バス停には留まれますが、バスを待っていなければ不審だし、やはり場に沿った行動が求められます。

それは自分の選んだ場所で(自分の選んだ人と)決められた行動をすることでしか留まれないということで、なんだか広がりのないことだなあと思ってしまいます。

そんな「留まれない」ものの1つがレジ。

あと5円、あと5円、絶対5円玉持ってるけど見つからない、うしろのお兄さん待ってるし、店員も張り付いた笑顔で直立してる、ああ焦ってたら床にケータイ落としちゃった、、、あわあわ

みたいなことありますよね。

なんとなく待ってる間に財布出しておかなきゃ、ポイントカードも用意しとかなきゃ、エコバッグも出しとかなきゃ、とか。

あれが本当に息苦しくて、私はここ数年意識的に周りの目を気にせずレジを使うようにしています。

まあでもせっかちな人が悪いわけでもなく、同じように時間がかかってしまう人が悪いわけでもなく、だからレジにもっと多様性があったら良いなと思ったんです。

スーパーや大型雑貨店なんかだとレジが複数レーンあるところが多いと思いますが、例えば5レーンあったとすると1のレジは超素早い人用。みんな先に財布もカードも用意してるし、レジを通した瞬間に自分で袋に詰めちゃってもOK。店員さんも早打ちの達人みたいな人で、その代わり愛想とかは求めない。対照的に5のレーンは素早く動けないお年寄りや身体障害をもった人も安心して使える。話し相手を求めてるおばあちゃんや一人暮らしで物寂しい上京したて学生がちょっとした世間話をしちゃってもOK。そうやって1から5のレーンにグラデーションをつけて自分にあったレーンに並ぶ。

今日はすごい急いでるから1に挑戦してみようとか、それで痛い目みたら今度からは急いでても2にしようと思ってみたり。今日の買い物はすごーくお気に入りのペンだからせっかくなら店員さんとこのペンについて話してみたい、だから今日は5。急ぎたくはないけど話しかけられたら嫌だし私は3。そんな感じで自分のコンディションに合わせてレジを選べる。

もっと言えば店員さんも、私はノロノロするのは性にあわないので1にしてください、私は人と話すの得意なので5にしてください、なんて選べたりもして。今日は調子出ないから3のレーンにしてもらってもいいですか、みたいにフレキシブルになれたらいいですよね。

まあもちろんこれは今実現するには売り上げだったり人材だったり、きっとたくさん障壁があるだろうので夢物語ではありますが、こういうことが実現されていくうちに町は懐が深くなり、そしてそれは人の懐が深くなっていくということだと思います。

もはや10年前(もしかしたらもっと前?)になりますが、高校入学前に一人でデンマークに行ったことがありました。そこで祖父母のお土産に陶器を買って包装をお願いしたのですが、時間がかかるかかる。東急ハンズなら5分もかからずやってくれそうなところをおそらく15〜20分待ちました。もしかしたらもっと待ったかもしれません。でもその間店内を改めて見て回って素敵なものを見つけられたりもしましたし、私は案外平気でした。できあがった包みはとても綺麗でしたし。でも仕上がりは東急ハンズと変わらないので、日本のアルバイトの皆さんはその包装技術だけ持って行ってもデンマークで職があるかもしれません。

少し話は逸れますが、そもそも日本のレジ打ちは狂気の沙汰ですよね。スーパーなんてほぼ手打ちで、店員さんが自力で右から左に商品を移動させて、それでいてスピードや接客が求められる。なんて優秀な集団なんだろう。

これももう10年以上前ですが、アメリカのシアトルに行ったとき、すでに向こうのレジにはベルトコンベアが導入されていてそれが大型スーパーのスタンダードだったように思います。

去年はウズベキスタンに行きましたが、首都タシケントで行ったスーパーもベルトコンベアに商品をのせると流れていき半自動的に計算されるようになっていたと思います。

そう考えると日本のスーパーマーケット店員はアナログレジ打ちのエキスパートだと思います。脱帽ですが、一方でお客さんに不遜な態度とられたりしてるところもよく見るので、もっと肩の力を抜いて働ける場所だと良いなと思います。

冒頭の留まれなさの話に戻りますが、以前銀座でふと留まりたくなったことがありました。留まることは考えられていない街中でしたが、植木のへりを見つけたので意を決してちょこんと座ってみました。通りゆく人々に摩訶不思議なものを見る目で見られたりもしましたが、しばらく経つとなんだかそこに私と同じように座る人が現れ始めました。私は30分近く座っていたように思いますが、その間に入れ替わり立ち替わり10人くらい座っていったと思います。私が座ったことで空間が変容したと感じた経験でした。

まあそんな感じでまずはレジから、レジじゃなくても本当はいいんですけど、懐の深い都市に変容させていってみてもいいんじゃないかなと思います。

今でも商店街でおじいちゃんおばあちゃんが出会い頭に立ち止まってお話しているのはよく見かけるので、昨今の都市の隙間のなさはやはり近代化の副産物なんでしょうね。

というわけで、都市はもっと懐が深くても良いじゃない、もっと留まれたって良いじゃない、まずはレジにもっと多様性があったっていいじゃん、というお話でした。



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