Uber Existence 体験記
2021年3月19,20日にKUMA EXHIBITION 2021にて花形槙さんの「Uber Existence」という作品に「アクター」として参加した。これはその体験記である。
私たちアクターは、カメラとマイクが取り付けられたキャップを被り、口元にスピーカーをセットし、マスクをつけ、ワイヤレスイヤホンを装備し、真っ黒の服に身を包みながら、PCを抱えて入口付近のブースで待機する。そうすると事前に予約していた「ユーザー」が時刻になるとアクセスしてくる。いくつかの動作確認を行った後、アクターはPCをリュックに詰めて展示会場の入口に移動し「存在代行」を開始する。そこからはイヤホンから聞こえてくるユーザーの指示に従い、アクターは一言も言葉を発せずに動く。ユーザーがシフトキーを押しながら音声入力するとアクターの口元にあるスピーカーから出力されるので、時にアクターは誰かと向き合いながら他人の声を口から発して他人が会話するための器となる。
作者の花形さんと話していると、アクターは無になって身体を空け渡しユーザーに憑依されるのが理想だったのではないかと思う。しかし、Uber Existenceというサービスを実際に提供した私の体験はあまりそういうものではなかった。私を選んだユーザーは基本的に私の存在を認知し、人権を尊重してくれる人達ばかりだった。急な階段の上り降りでは「気を付けてくださいね」と声をかけてくれたり、しゃがむとお礼を言ってくれたりした。中にはYuumiさん(Mabuchi Yuumiという名前でアバターをやっていた)と呼び掛けながら指示を出すユーザーもいて、つまり彼ら自身が(そういえば私に申し込んだユーザーは全員男性だった)あくまで他人の身体を「借りて」いる感覚でUber Existenceを使用していた。
そのような中いくつか面白かったことがある。まず1つ目がユーザーが空間を認知しようとしていたことだ。私に申し込んだユーザーは1人を除いて(1人だけ地図と照らし合わせて移動する人がいた)皆カメラを通して空間を把握しようとしていた。部屋の角まで歩くように言われたり、2階から1階を見下ろすように言われたり、その度にユーザーたちは「なるほど、そうなっているのか」などと言って段々と空間を認知していた。この時私はツァイ・ミンリャンの「蘭若寺の住人」を思い出した。これはシアターコモンズ'21で発表されたVR映画なのだが、私はそこで作品の地理的感覚をリアルタイムで養う感覚を得た。私は映画や演劇を見るとき、あまりリアルタイムで地理を紐どいて見ようとはしない。しかしVR映画を見たときどこか強制的に地理を把握させられるような心地がし、というより地理感覚を把握しなければ鑑賞することが不可能な気がして、カットごとの舞台を1つの世界に繋ぐ作業をしていた。Uber Existenceのユーザーが行っていた行為はどこかこれに近いような気がしている。そもそもユーザー側からすればVR体験とUber Existence体験はほぼ同じであり、このサービスが当たり前になったとき、そこに人間が存在することを正しく認知する方が難しいのではないかと思う。
次に、Uber Existenceが普段の私では持たない目線を与えてくれたことにも言及したい。普通に鑑賞すればすぐにわかるマテリアルも、カメラ越しだとわかりづらいことが多いようで、イヤホン越しに聞こえてくる悩める声に答えようと、時に床に這いつくばって極限まで作品に近づいたり、目と鼻の先までゴキブリに近づいたり。体裁もあるし、そもそも必要なかったりで、私自身が作品を鑑賞する際にそのような動きはしない。しかし、そのおかげで私は作品のほんの小さな穴を発見し、ゴキブリの節の動きまで観察することができた。アクターとユーザーの発見はいつも少し次元がずれている。
3つ目は所有の問題、から発展して法の問題だ。一度出展者から名刺を差し出される場面があったのだが、勿論私は器であって、会話していたのはユーザーである。ではその名刺はどうなるのか?ユーザーのもとへは届かないのか?存在を代行している私がもらえば、すなわちユーザーがもらったことになるのか?その場合その所有権は誰にあるのか?結局ユーザーが「もらってください。たぶんそれでもらったことになると思うので。」と言ったので、私たちは私が名刺をもらうことで落ち着いた。
最後に、ユーザーとアクターの関係について。私のUber Existence体験は存在を乗っ取られるようなものではなかったことは先にも述べたが、ではどのようなものだったのかと言うと、協力関係もしくは共闘関係であったと言える。いつかのユーザーが現地の人間にUber Existenceの感想を求められて「言わなくてもやってくれることとやってくれちゃうことの境界が難しくて、まだ作業に忙殺されています。」と言っていたが、なるほどと思った。始まったばかりの頃はユーザーがどのような速度で歩いてほしいのか、どのような観点で作品を見るのか、どんなことに興味を持ってUber Existenceに申し込んだのか、何も見えていない。しかしたった1時間の中でも見えてくるものがある。それはアクターからユーザー側だけでなく、ユーザーからアクター側でも似たようなことがあるらしく、ユーザーの指示も次第にうまくなっていく。それはエヴァンゲリオンとエヴァパイロットのシンクロ率のようで、先ほどからアクターは器だと何度か言っているが、まさに我々は人型ロボットのようなものなのかもしれない。しかしやはり他人なのである。人によっては演出家と俳優の関係に非常に近い時もあった。目的を達成するために私の身体に必要な指示(アドバイスと言っても良いかもしれない)をユーザーがだし、アクターである私は自我を持ってそれに答える。これでどうですか?とさまざまな提案を動きで提示する。その噛み合いがうまくいくとどこか気持ちが良い。そういうわけで「共闘関係」という言葉が一番しっくりくる。私たちは「アクター」なのだから、この関係が正しいとも言える。
Uber Existenceの鍵はシステムとイントロダクションにあるように思う。アクターが少しでも声を発してよければ、最初の動作確認がアクターによって行われていなければ、絶対に自発的に動いてはいけないとアクターに制限をかければ、ユーザーの指示はすべて一人称で言うようになっていれば……いくらでも思いつくが、このパラメーターを1つずつ少しでもいじれば体験が大きく変わるのがUber Existenceのように思う。Uber Existenceがどのような体験になるのかは、ユーザーとアクター間の偶然性以上にシステムを作る側にあるように思う。その余白が残されていることもそれはそれで面白くあり、その余白を少なくしていくとUber Existenceはサービスになっていくように思う。果たしてこれからどのように発展していくのか、非常に興味深く思う。