「芸術」の暴力性

芸術が好きだが、自称「芸術」には興味がない。
がちゃがちゃうるさい自己陶酔系の社会派バンド、鬱陶しい。
だいたいこの手のバンドはかっこええセリフ、耳触りの良くとんがったツンツンのセリフのコレクターであり、接続詞で繋げて韻を踏み!叫ぶ!とにかく大音量で。
酔ってる人たちなので音量が上がる一方だ。
お前ら、わかってのかー!?ちゃんとついてこいよ!って。

いや、ついていきません。耳も頭も痛いので。

天皇・首相・NHK・与党・歴史は「芸術」の中ではひどい目にあわされる。
そういうものだ。そこに正当性はない。単なるストレス解消の対象なだけだ。遊びだ。
YouTubeに投稿するバイトテロとさして変わらないレベルのストレス解消的「芸術」だ。
表現の自由も、税金による補助金も欲しいというのは無茶な話だ。
リスクのある行為をやりたいなら寄付を募り、自費ですれば良い。それこそ自由のはず。

芸術のフリをした政治的暴力的表現に不快な感情を持ち距離を置くのも、自由だ。
歴史への見解は人それぞれだという事を我々は心にとめておきたい。
表面化する感情=多数派では決してない。沈黙のマジョリティーの存在を意識しよう。

敗戦し、戦争犯罪国というトラウマを抱える日本。
疑問の残る「史実」も沢山あるのに、哀しい感情だけがすべてを閉じ込めてしまう。
日本人として皆さんに謝らないといけない、反省しないといけない、という強迫観念は客観的な歴史学を殺してしまう。

日本のメディアは、とにかく謝りたい症候群の日本人の善意につけ込むのが実にうまい。
隣国の腐敗した政権批判を避けるため、他国を常に敵視する癖に、日本のメディアは便乗しすぎだ。一般人はハイハイと追従しすぎて、思考停止。はい、これは実に楽チン。

日本の歴史、日本人としての誇りを無条件に否定することだけが本当に正しいのだろうか。
そのためには、芸術という盾を使って暴力が許されて良いのだろうか。
私は○派、○教と立場を決めつけて容易に「いいね」「シェア」をしてしまう恐ろしさよ。
「本当にそうかな?」「へぇー。初めて知った」「あらま」というアクションがあっても良いはずだ。

絶対こうだ!という気持ち良いフレーズに満たされた論説に酔うのも一つの娯楽だが、ちょっと立ち止まって考えたい。
「こうだ!」「みんなそう言ってるし!」というなんとなくの雰囲気からなんとなくの「正義」が生まれ、その為に戦ったのが戦争なのだから。


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