いいね!しにくい二元論社会の線
団体行動が苦手。それ以上に、団体的な思考・感覚が苦手だ。いいね!的な空気には本能的に警戒してしまう自分がいる。なんかおかしい、怖いと警戒する。
日本という国は、はっきりした宗教に支配されずフワフワしている。寛容な社会でもある。かといって優しいわけではない。他人には関心が薄く、適度な距離感を保てているだけだ。空気を感知し、無言で「ちゃんとした対応」をとれる。
そう、(普通は)訴えられなくても。
ではどうだろう。人とは適度な距離を保ち、快適に過ごせる私たちを守ってくれてるのは、果たして【空気】なんだろうか?法律だろうか?政治?快楽?気圧?視線?
或いは、二元論のバリア?
男と女、大人と子供、外国人と日本人、利口な人とバカな人、おもしろい人とつまんない人、社会に関心ある人と個人の豊かな生活を大切にする人。
この世の中の二元論が生み出すのは、これもあれもそのままで良いという【共存】の関係ではなく、【対立】なのだ。
全体と個人。善と悪。器用と不器用。快感と不快感。
楽な方に入れなくて残念な人たち。楽な方に入りたくて、無理やり入ったらどうでしょう。その生き辛さ、結局ハンパない。演じる事に力が入りすぎてる。そんな心身はいつか大怪我するでしょう。
二元論の中でどちらにも属せていないあなたは、個々として生き通すしかないのだ。
この線を越えてしまったということは、個になるということなのだから。