自分を認めてあげたい


自分のことを認めたい、かわいくなりたい、と初めて思ったのがいつなのかは覚えていないけれど、間違いなく幼い頃から潜在意識としてあった。

顔面課金額400万円になりそうなわたしの性格は負けず嫌い、完璧主義、ストイック。羅列してみると、自身を承認するには不向きな性格である。親には些細なことでべた褒めされ、自分を天才か何かだと勘違いしていた。学生時代のテストは絶対に1番でないと。足は1番早くないと。何でもかんでも1番にならないと自分が許せない。自分が1番かわいくないといけなかった。その延長線上で、1番に髪を染めて、1番にピアスをあけた。今思えば整形もそうだったのかもしれない。でも、自分がどんどん世に出て世界が広がる中で、どれだけ井の中の蛙だかを思い知らされた。少しの学習で慶応に受かる人や、生まれたままの顔でモデルをする人、それらの全てに敵わなくなっていき、わたしは絶望したのである。どれだけ早く髪を染め、ピアスをあけ、整形をしても、それは単にコンプレックスを隠す手段。自分自身がどんどん埋もれていくのが目に見えてとても怖かった。自分の性格が自分の首をしめていることに気づいたわたしは、もう何もしないほうが身のためだ、傷つきたくない、と、あらゆることから逃げ始めてしまったのだ。

だが、今わたしは自分のことを認められている。ここまで自分をもっていったマインドについて話したいと思う。

完璧主義のわたしからしたら、少しの失敗も恥ずかしい。挑戦している過程、練習をしている過程、美容整形におけるダウンタイム中などの完成されるまでの時間を他人に見せるなんて以ての外。きちんと作品になるまでは他人に見せることはできない。それを全ての物事に対して思っていたのだから、今思うと相当なストレスだ。中学三年生の学力テストで思い通りの順位になれなくて挫折したときも、大学二年生で躁うつ病になった(これについては別の機会に詳しく書いてみたい)ときも、ダウンタイム鬱で泣きじゃくったあの日も、何もできない自分を認めることができなかった。

そんな感情をコントロールする方法などあるのか。周りの人はこのような感情になったときにどのように対処するのか。初めてちゃんと周りに興味を持ち、目を向けた。

そうしたら意外と皆、失敗や過程をさらけ出していた。ありのままを見せていた。誰も恥ずかしがっていないし、それを見て嘲笑う人もいない。(いたとしても当人の目にうつることはなかった。)それがとてもごく自然だったのである。え?そんなの普通に皆が知っていることだって?わたしには、どうしてそんなに平然と見せることができるのか不思議でならなかったのだから、想像を絶する程の生きづらさでしょう?よくよく考えてみれば、完成されたわたしはありのままだと自信を持って言うことはできない。そんな偽りの自分で勝負をし、愛されたとして、それは本当にわたしが求めていることなのだろうか。ふとそんなことが頭に過った。わたしよりも派手に失敗していたとしても、それをさらけ出し、笑い話にして皆に愛される人が、とてもキラキラして見えた。

そうだ、失敗が恥ずかしいのではない。何もせずに逃げる方法ばかりで頭がいっぱいの思考が恥ずかしいのだ。

ここでようやく気づいたわたしは、ありのままの自分を見せる練習をした。自分が恥ずかしいと思っていた些細なことを人に見せてみよう。できないことはキッパリと「できない。」と言う。ダウンタイム中の写真をあえて友人に見せてみるのはどうだろうか。変に背伸びはしない。そうすると案外、完成されていない自分を受け入れてもらえることが分かった。そんなもんなのだと気づけたこと、ありのままの自分を周りに受け入れてもらうことで、自身を認めることができた。

こんなことで悩む人がわたし以外にいるのかは分からないが、いるのだとしたら少しでも役に立ちたい。少しでも変われるきっかけになりたい。長くなってしまったが、自分を愛せる人間が1人でも増えることに期待したいです。





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